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創造論を考えよう at 東京ビリングストーン教会

科学っていったい何?

科学とは何か?
こんなものは、科学哲学者に任せておけばよいものを・・・とおっしゃるお方もいるかもしれません。
しかし、これを考えないと、通常の生活を歩むのに、
支障をきたす場合も出てくることを肝に銘じなければなりません。

科学は真理か?科学は事実か?

科学は真理ではありません。
科学とは非常に限定的なものであり、不確かなものです。

科学は事実でもありません。
科学とは事実から出発した仮説の連続であり、事実に人間の思考という衣を着せたものです。

つまり、科学とは哲学なのです。(今でも学位は、PhD、つまり、哲学博士ですよ)

さて、一つ一つ見ていきたいと思います。
まずは科学は真理ではないという点を検証しましょう。
ある一つの命題を考えて見ましょう。

「壁に物体をぶつければ、その物体は跳ね返ってきますか?」

さて、Yes Or No?
科学的な答えはどうでしょうか?

答えはNoです。
え?まじですか?壁にテニスボールを投げれば帰ってきますよ?と考えるかもしれませんが、
私たちの目に見えるくらいの大きさの世界ならば、それは正しいのですが、
電子や原子くらいの小さい世界になるとそれは間違っています。

そう、トンネル効果という物理現象により、
壁にぶつかった電子が壁をすり抜けていってしまう場合も存在します。

つまり、これは古典力学では説明できない現象であるわけです。
しかし、この「古典力学では説明できない」という宣言をした瞬間に、
なんと新しい力学、今で言う量子力学の扉を開きました。
このように物理学は発展してきたのです。

これは、見てきた古典力学、量子力学の例だけに拠らず、
現代科学の全ての分野に適用されている原理です。

つまり、それは反証主義と呼ばれるもの。
これは、「全ての科学は否定されうるべき余地を残してある」という主義です。

否定される余地がなければならないというのが科学の条件なのです。
科学は条件付なものであり、決して真理ではありません。
非常に不確かで危ういものだと思ったほうが正しいのです。


さらに、科学は事実ではないという点も次回指摘します^^

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# by creation_tsunya | 2010-05-21 08:23 | 創造論

良いコメントを投稿していただきました。

山本直樹さんという方から二つのコメントいただきました。
非常に沢山の問題をはらんでいますので、コメントではなく本文で取り上げたいと思います。
一つ一つが重たいので、まずは一つ目を掲載します。
といっても二つ目のコメントにも非常に絡み合っていますけれど。

---以下引用---

インテリジェントデザインを理科で教えるのは、違憲だという判決の出たドーバー裁判で、
インテリジェントデザインを支持する査読つき論文がないことが示されたそうです。
ID 論の弁証者で有名なBeheさえも認めているのです。

反対尋問でBehe教授はそれを認めた:
いかなる生物学的システムのインテリジェントデザインがどのように起きたかについて、
詳細で厳格な説明を与えるような、実験または計算で支持されるような、
インテリジェとデザインを主張する査読つき論文はまったくない」。
そして、Behe教授の論である、そのような複雑な分子構造が、
"還元不可能な複雑さ"を持つことを支持する査読つき論文はない。
査読つき学術誌に論文を掲載できていないのに加えて、
インテリジェントデザインは科学的研究や検証を取り上げていない。
出典 http://transact.seesaa.net/article/19334918.html God vs. Science

---以上引用終わり---

はい、この裁判は有名な裁判です。
ID論を提唱する側が裁判に負けて、一気にアメリカはID論から手を引いた感じになりました。

さて、なぜID論は負けたのでしょうか?

ID論は知性を持ったものの創造というところにとどまり、創造主という存在が何であるかを明示しません。
これは、教育問題が絡み合っていて、このようにされているのですが、
ID論が違憲であるという判断は、ここに問題ありとされたからです。

つまり、ID論は知的存在というものの化けの皮をかぶったキリスト教の宗教だ!とされたからです。
ID論は科学じゃなくてキリスト教じゃないか!とね。

ID論者たちは、ID論を科学だとして教育界にもって行きたかったのですが、
裁判上でID論が科学的である証拠を持ってくることが出来ませんでした。
ということで、ID論は宗教とされて、ある一つの宗教の主張を公立校で教えることは、
宗教の自由を奪うこととして違憲の判断がなされ、
公立校での教育現場に持ち出すことが出来なくなったのです。

さて、第一に、なぜID論提唱者であるベーへ教授でさえ、査読付きの学術論文にて、
ID論の柱である「還元不可能な複雑さ」を持つことを指示した科学論文はないと答えるしかなかったのか?

これは、興味深い問題です。
科学とは何か?を考える良い機会かもしれません。
結論は、科学とは不確かなものであり、

科学には、必ず信仰が含まなければいけない!

という私の個人的な主張に落ち着きます。
え!科学に信仰が含まれるのですか?と驚く方もいるかもしれませんが、
科学のフロンティアにいた私からすると、科学は信仰以外の何者でもないのです。
もちろん、盲目的に信じているわけではなく、データを見て信じているんですが・・・。

次回から一つ一つ見ましょう。

P.S.
山本直樹さま

二つ目のコメント、有神論的進化論に関しては、この議論が終わったらさせていただきます。
(もちろん、私も持っています。本の中ではバイオロゴスと書いてありましたっけ?)
先のID論裁判に負けた人々が大量に流れ傾いていった説ですが、神学的な欠点が多く残されています。
もちろん、この説はこの説で評価すべきところも沢山ありますけれど。
とりあえず、科学の問題だけですごく長くなりそうです。

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# by creation_tsunya | 2010-05-20 19:21 | 創造論

スタンリー・ミラー実験

1953年スタンリー・ミラーがシカゴ大学の大学院生のときに、
行った実験がかの有名なミラー実験です。

ミラー実験では水素を含んだ、メタン・アンモニア・水蒸気からなる混合気体を、
地球の原始大気として採用し、図のようなプロセスを経て、
電気スパークを与えれば、アミノ酸が自然的に合成されるという実験でした。
f0213901_2151089.jpg

(図は、ウィキペディアから頂きました。)
つまり、無機物はただの電気スパークによって、自然的に有機物を合成できる!!
という画期的な実験だったのです。
ついに、生命の元である有機化合物、
アミノ酸が誰の手を借りずに、合成できたという宣伝が広まりました。

その与えたインパクトはかなり大きなものでした。
後に見るように、この実験が正しくなかったにもかかわらず、
たくさんの科学の教科書に残っており、
実験の意義の有用性を付加し、いまだに影響力を持っているのです。

さて、この実験の何がまずかったのでしょうか?


第一にその前提である原始大気が、後の研究で誤りであることが分かりました。
地球惑星物理学者は、原始大気の組成を水素やアンモニアではなく、
二酸化炭素・窒素・水蒸気であったとしています。

さて、この原始大気組成でおなじミラー実験を行うとどうなるでしょうか?
もちろん、アミノ酸は合成されません。
つまり、ミラー実験は失敗に終わったのです。

中には、有機分子が合成されると書いてある事もあるみたいですが、
残念ながらその有機分子はホルムアルデヒドなどの猛毒物質であり、
生命には程遠いということが分かっています。いわゆる死体防腐剤です。


いまや、ミラー実験は否定され、生命の起源はわけが分からない状態になっています。
よくニュートンとかに乗っているのは、「RNAワールド」のようなものです。
RNAからDNAへと進化していったというプロセスです。
しかし、RNAがどのように作られたか?
RNAが原始地球環境をどのように行きぬいたか?を説明することはできません。
とあるジャーナリストはこのように述べています。

「生命の誕生家庭について、科学者は皆目見当のつかない状態にある。
一般的に受け入れられている理論は存在しない。
研究者は、生命の元である化学物質への進化過程をあれこれ説明されているが、
評価に値するものはない。」

無機物から生命までの自発的発生を、
説明することのとてつもない難しさを考えると、
科学者にとって生命自体が「奇跡」であるといっても過言ではないのです。
実際、宗教を毛嫌いする科学者たちの口からもその言葉が出ています。
たとえば、DNAの2重螺旋を発見したクリックもこのように述べている。

「正直のところ、現存の知識を総動員して言えることは、
生命誕生の為に満たされるべき条件が非常に多いため、
現時点では生命の起源はまず奇跡とした思えない。」


そうです。生命の発生は、科学を通してでも奇跡を持ち出すしかないのです。
自然発生的な説明が見つからず、その可能性さえないのであれば、
超自然的な説明を求めるのが最も合理的であると、認めざるを得ません。

いまや、自然的なプロセスでの生命の誕生を主張することは、
超自然的な推論を主張することよりも完璧な信仰が必要な時代なのです。

主なる神様は、ぐうの音も出ないくらいの完璧さで生命を作られました。
創世記には「きわめて良かった」と書いてあるとおりです。
自然を見れば神の神性が現されているとするローマ書のみことばは真実なのです。

さらには、物理学のファインチューニングで見たように、
そのように調整された世界には、自分の存在を知らしめ、
気づいてほしいと思う主なる神さまの愛が見えてくるのです。


さて、次は、ヘッケルの胚についてみていきたいと思います。
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# by creation_tsunya | 2010-03-24 21:25 | 創造論

創造論のイコン

今まで創造論について考えてきましたが、
少しブレイクして進化論について考えてみたいと思います。

好きか嫌いかというカテゴリーで言えば、
私は進化論の論理的思考は結構好きです。
なるほどな~と思ってしまうふしがたく差あります。

進化論は聖書がなければ、
その理論は非常によくできていて強力な仮説となります。
しかし、進化論は聖書の前では、色あせるというか、足りなすぎるのです。

聖書は、人間が抱える問題すべてに解決を見出すことができます。
しかし、進化論はある部分の問題しか考えることができないのです。

創造論が聖書の論理を強め、主なる神様への進行を強める一方で、
進化論は、無神論的な唯物論の世界観を展開し、
絶対者のいない世界、まったく愛がない世界を強めます。

進化論者はその世界観に愛がないことを認めなければいけません。
すべてを偶然としたときの、冷たく乾いた世界をまじまじと見る必要があると思います。


今回は進化論におけるよく知られたイメージについて話していきます。
ミラー実験、ヘッケルの胚、進化系統樹などです。
それは、すべて教科書で習ったり、私たちの記憶に新しいものでありますが、
あるものは失敗、あるものは捏造、あるものは証拠不十分・・・と、
その意味は薄れているものばかりです。

しかし、これらのイメージは一人歩きして、
強力な証拠のように思えてしまっています。
これを一つ一つ検証していきましょう。
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# by creation_tsunya | 2010-03-20 01:26 | 創造論

ベイズ理論による奇跡の評価と信仰 続編

さて続編です。

ベイズ理論に対する批判のひとつとして、事前確率に主観確率を使う点が上げられています。
先ほどの、病気の検査の話では、病人がいる確率を勝手に決めているという点において、
その確率に客観性がなく実際のデータを反映していないという批判です。
これは、ごもっともなことです。

しかし、実際は、迷惑メールの振り分けのように、何度かベイズ定式を適用して、
主観性を持った事前確率を、実際の事実に基づく事後確率に変換して、
学習させていく(絞り込んでいく)というプロセスを経るため、問題は生じません。

何回かの事象を経れば、事後確率はかなり正確な値を取ることができます。
もちろんスパムメールの振り分けは完璧ではないですね。
私もなんどか、本物がスパムと判断されて、やられました・・・。


それで、奇跡の問題を考えるときは、この主観確率っていうものが有効なものになります。
さて、トランプゲームを考えて見ましょう。

トランプを2回引いて両方ともハートのエースである確率は、1/2704です。
なかなかありえない確率です。
しかし、ここでちょっと細工しておきます。
実は、1/100の確率で全部ハートのエースであるトランプセットを紛れ込ませておくのです。

こんな状態で、実際にハートのエースを2回引いてしまいました!
さて、この時細工されたトランプセットを用いていた確率はどうなるでしょうか?

計算しますと、
ハートのエースを2回引くという確率は、二つの場合に分かれます。
普通のトランプセットから2回引く、細工されたトランプセットから2回引く・・・です。
それぞれ確率は、99/100×1/2704、1/100×1、この足し算が分母です。
分子は、実際に細工されたトランプセットだったという確率ですから、1/100です。

と言うことで、ベイズ定式に入れますと、事後確率は、
P(B|A)=1/100/(99/100×1/2704×1/100×1)~0.96
なんと96%で、細工されたトランプセットを引いた!と言うことが定性的に議論できます。

これは、人間の思考と非常にマッチングしています。
1/2704の確率でハートのエースを2回だすのはありえないことです。
しかし、実際にそれが起こってしまっているので、
これは細工されたトランプセットであるに違いない、と考える思考手順と同じです。

数式にすると、この「であるに違いない」というあいまいな表現が、
96%と言う具体的な数字になっているだけです。


さて、奇跡の問題を考える前に、細工されているベイズ定式を考えるときは、
以下のようにその公式を書き換えることができることに注目することができます。

P(B|A)=P(C)/((1-P(C))×P(A')+P(C))
ここで、P(C)とは細工されていると思う主観確率です。

つまり、事後確率はP(C)の関数としてあらわにされるというのがミソです。
(文系の方、すいません。)

たとえば、がんが癒されるという奇跡を考えて見ましょう。
がんが自然治癒される確率は、ほぼゼロです。
100万分の1か、1000万分の1か、それよりぐっと少ないでしょう。

P(B|A)=P(C)/((1-P(C))/1000000+P(C))とかになります。
つまり、ここでP(C)をそれが細工されていると思う確率、つまり奇跡であるという主観確率を、
どう評価するかによって、この事後確率は変わるわけです。

実はP(C)がP(A')と同程度で事後確率は50%、2倍で67%、10倍で91%になります。
急激にP(A')と比べて少しでも大きくなれば、急激に1に近づくのです。
グラフにしてみました。論文っぽいな~。
f0213901_2151220.jpg

この図はP(A')を100万分の1に調節してあります。グラフ上では10-6乗のところです。
大きいグラフは、縦横ともに特別な軸にしてあります。
logスケールってやつですが、まあ、気にしないでください。
見てみますと、事前確率がP(A')程度までは、事前確率に比例して事後確率が伸びてきます。
ただ、事前確率がゼロに近い10-7乗だとしても、事後確率は0.1もあります。
ちなみに、linearスケールで見ますと、ほとんど全域で1に近い値です。


つまり、実際に100万分の1の確率で癒されるがんだとすれば、
細工された奇跡が起きる確率が、10万分の1だけ心で思っていても91%奇跡だと断言できます。
ほんの少しの主観確率があれば、目の前で自然治癒してしまったがんは、
それが何らかの細工された奇跡やらドラマ、ある意味ペテンだった可能性はかなり高いのです。

つまり、確率論的には、ありえない事象が起こったら、
それはほとんどの場合、裏に何かあると考えてよいことになります。
がんが自然治癒された!事件が目の前で起こったら、
それは偶然ではなく、何か外的な力が働いたと数学的に考えてよいのです。

要するにすごいのは、奇跡が数学的にも認められる!ことです。


ただ例外があります。
奇跡なんてないと主観確率をおく場合、つまり事前確率が0である場合は例外です。
この時は、がんが癒されたのは、完全な偶然だったと考えることができます。
だって、事前確率が0なら事後確率も0ですから・・・。

これは何を意味するのでしょうか?
つまり、次のみことばをベイズ理論は数式化に成功したと言えます。

マタイ13:13
『見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』

ファリサイ派たちは、イエスキリストのすべての奇跡を見たにもかかわらず、信じませんでした。
これは、イエスキリストの奇跡に問題があったのではありません。
ファリサイ派の人々は、イエスキリストのすべての御業に対して事前確率が0であったのです。
最初からイエスキリストがメシアであることなんて信じようと思っていなかったのです。
信じようとしていなかったので、信じることができなかったわけです。

ラザロと金持ちのところでもこういうみことばがあります。

ルカ16:31
『アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、
たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」』

モーセと預言者に耳を傾けないのなら、つまり、モーセや預言者の話を信じようとする心がなければ、
死者の中から生き返るという奇跡的なことが起きても、信じないということです。
事前確率が0であるなら、事後確率も0なのです。


神を見れば信じるという人が時々います。しかし、彼らに神を見せてもだめなのです。
彼らに信じる心、奇跡を受け入れる心がなければ、奇跡は彼らには無意味なものとなります。

このことは、聖書における真理です。
聖書は、信じようと思う人には信じることができて、信じようと思わない人は信じることができないのです。
心を開くことが重要であるのです。

黙示録3:20
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』


私は、いままでベイズ理論で、奇跡と言うものを数式化しようとしました。
なぜベイズが主観確率に基づく確率論を定式化しようとしたか?
それは明言されていませんが、ベイズは、信仰の問題を定式化しようとしていたのではないでしょうか?

ベイズ理論で奇跡を定式化するとき、聖書の真理にぶつかります。
信仰とはどのようなものであるのか?私達のなすべきことは何なのか?それが見えてきます。
強いメッセージを語ることができるのです。
牧師である彼は、それをやりたかったのではないか?と勝手に思っている私であります。


創造論ばかり話してきました。
次は少しずつ進化論について離したいと思います。
私は思います。
聖書に創世記1章がなかったら、進化論を有効的な仮説として選んでも良かったと思います。
その論理はある程度堅固ですし、納得いくところもあります。
しかし、残念ながら、それには数々の欠陥があるのです。

P.S.
私はこのように創造論を議論して、主なる神様の真実性。
聖書の真実性を論証していきます。

しかし、この明らかな結論、つまり聖書は正しいということを目の前に突きつけても、
たとえどんなに詳細に議論しても、信じない人は信じないのです。
それは、事前確率が0だからです。つまり、信じる気がさらさらないからです。

信じるにはどうすればよいのか?事前確率を0で無くせばよいだけです。
心を少し、変えれば良いのです。
残念ながら、それは議論でできるものではありません。
聖霊様の働きがなければできないことです。

これを読むすべての人の心が代わることを切に祈っています。

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# by creation_tsunya | 2010-03-12 21:14 | 創造論



福音的な立場で創造論を考えていこう

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