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創造論を考えよう at 東京ビリングストーン教会

予告編!!

そろそろ勉強して貯まって?きた宗教多元主義について書いて行きたいと思います。

まさしく、宗教多元主義の時代に生きる私達がどのようにクリスチャンとしての、
とくに福音主義的な信仰を持ち続けることが出来るのか?
それが可能なのか?それとも修正を迫られるのか?
よく考える機会としたいと思います。

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# by creation_tsunya | 2012-01-17 20:35 | 宗教多元主義

宗教多元主義について考える1

話の中で出てきましたので、
宗教多元主義について考えたいとおもいます。

現代は多元主義の世界です。
まあ、そういう主張もあるか、というところで全ての主張を認め合います。
私はこう考えてます。あなたはこう考えているんですね。すばらしい。理解します。という感じ。
しかし、ここに信仰にとっても大きな落とし穴があります。


さて、宗教多元主義とは何か?
(ちなみに、私はそんなに詳しくないです。最近の多元主義はもっと発展してるかも。)
よく山登りにたとえられます。
山の頂上が人間の救いだと考えてみましょう。
ふつうの山登りだったら、いろんな登山コースがあります。
いろんな道があるのですが、それぞれ上ってみたら同じ頂上に着きます。
富士山に登るのに、砂走り口も、御殿場口もありますが、同じ10合目に到達することが出来るのと同じです。

つまり、宗教多元主義とは、どんな宗教を信じたとしても、
それは究極的な人間の救いに繋がるという主張なのです。
ユダヤ教でも、仏教でも、イスラム教でも、キリスト教でも同じ山を登っており、道が違うだけだと。
そのゴールは同じく、救いであるという風に考える主張です。

だから、考え方が違っても、宗教が違っても大丈夫。
対話して頑張ろう!という感じで、平和に用いられる主張です。
宗教で戦争なんてやってるのがおかしい、だから、みんな認めてしまって平和にやりましょうよ・・・と。
この一見よさそうに見える主張ですが、大きな落とし穴があります。


まず、救いの概念が宗教ごとに違いすぎるということ。
そもそも、ヒンズー教や仏教、神道、儒教には救いはありません。このへんを勘違いしてはいけません。
ヒンズー教は、階層が上に行くことがよいことであるだけで、救いという概念はありません。ゴールなしです。
仏教は、輪廻転生から抜けること、つまり「悟り」が最終目標であって、救いではありません。むしろ永遠の死に近いですね。
神道は、性善説ですので、そもそも救われる必要が無いです。現世利益だけでやっていけます。
儒教は、行動規範ですので、やっぱり救われるという概念はないのです。

救いの概念が無い宗教と、救いの概念がある宗教をどうやって、同じ山を登っていると考えることが出来るのでしょうか?


一神教だけ見ても、その調和は絶望的です。
一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つ。
人間の営みが長いとしても、一神教は3つしかありません。(これも驚くべき事実です。)
しかも、この3つは聖書のモーセ5書を同じく認めています。
創世記の3章に書かれている人間の堕落とその結果、罪によって命が失われたということを認めているのです。

さて、5書を認める3つの一神教ですが、信じているその神様は、同じではありません。
キリスト教は、ご存知のとおり、父・子・聖霊の三位一体の神様。
ユダヤ教は、ヤハウェ。ここに三位一体の概念はありません。
イスラム教は、アッラー。コーランに書かれる神様像は、どうもユダヤ教のそれとはマッチしません。

神様の概念が違うので、救いの概念も違います。
キリスト教はイエスキリストの十字架の死と復活を、信じれば救われます。
ユダヤ教は、いまだに救い主を待ち望んでいます。
イスラム教は、善行によって罪が赦されると言っています。

全然違うじゃん!と突っ込みを入れたくなりますね・・・。
平和に全てを調和することが出来るのでしょうか?
論理的に無理です。片方を取れば、必ず片方に引っかかってしまいます。

どう考えても、宗教ごとに違う山をせっせと登っているとしか考えられません。
ということは、どれかが正しくて、どれかが間違っているのです。
富士山を上らなきゃいけないのに、高尾山を上っている人がいるのです!
もしくは、箱根山とか、もしかしたら、近所の丘を登っている人がいるかも知れません。
なんと人間とは、こっけいな存在でしょうか?


だから、イエス様はこうおっしゃっているのです。

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』ヨハネ14:6

『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。』マタイ10:36

真理は、人を分けます。それを認める人と、認めない人にです。
認め信じる人は救われますが、拒否する人は救われません。
この意味で、イエス様は剣をもたらしました。
私たちは、認めなければならないのです。真理であるイエスキリストを。

しかし、多元主義者、いや、世の中一般的な人は、クリスチャンのこのような主張にこういうでしょう。
キリスト教が唯一だという主張は、心が狭い。もっと肝要になるべきだ!と。
その主張は、救われたという優越感を持った人が、まだ救われていない人を見ていう、さげすむ表現だ、と。

このように主張する人は、忘れているのです。
三位一体の神様が与えてくださる救いがどのようなものかを。
それは、信仰です。信じるだけで救われます。行いによる条件がそこにはありません。
ですから、救われたいのなら、信じればよいのです。
ただそれだけなのに、信じようとしないのです。


そして、多元主義の人は必ずと言っていいほど、排他的な救いの概念を持っている宗教、
特にキリスト教を批判します。
しかし、ここにも大きな論理矛盾を抱えています。
次にそれを考えて見ましょう。

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# by creation_tsunya | 2010-06-11 22:53 | 宗教多元主義

有神論的進化論パート4

有神論的進化論には神学的に受け入れられない部分があることを指摘してきましたが、
今日はノアの箱船に関しての記述です。

問題はノアの箱船が地域的な洪水だったのか?
全世界的な洪水だったのかというものです。

ほとんどの進化論者は、地球規模での洪水を否定しています。
進化論では、地球全体での洪水が起こるとまずい問題が生じます。
これは地質学に絡む問題があるからです。

出てきた化石年代を決めるときには、地質学的な年代決定をとります。
地質がうんたら期のところなので、何万年前という風に出てくるのです。
この辺も誤解を生むことが多いのですが、
すべての化石をC13などの放射性同位体系の測定で年代を出しているわけではありません。
C13が正確にその年代を出すのは高々うん千年くらいのレベルだからです。

ほとんどは、地質学的にはしごを掛けて測定しています。
さて、地質学的にはしごを掛けるためには標準的な地質標本みたいなものがなければなりません。
石柱図というものですが、それと比べて、年代を決定するのです。

ここで、問題が生じるのは、地球規模での大変革が起こったとすると、
その標本は役にたたなくなってしまうのです。
なぜかって、何にも起きない状態であったと仮定して、何センチ何年という計算がなされます。
しかし、天変地異が起こると、数年で何百万年分の地層が積み重なってしまうのです。
(実際に、セントヘレナ火山の噴火によって起こった。)

このようなことが起こると、化石の年代決定に大きな打撃を与え、
その年代に進化の論拠をおく進化論自体が打撃を受けるのです。
たとえば恐竜と、原人と呼ばれるものの出てくる地質は結構離れていますが、
その差が、実は数年の差だったりしたら進化論的には大変なことになります。

よって、進化論者からすれば、地球規模の洪水が起こったとするノアの箱船は、
まったく受け入れることができないものなのです。
有神論的進化論においても同じことです。
(もちろん、地球規模的な天変地異が起こったとして研究する有神論的進化論者もいるかもしれません。)


しかし、ノアの箱船が地球規模的な洪水ではなかったとすると、神学的な大きな問題を生じます。

ノアの洪水はただの物語的な教訓を指し示すものではありません。
あれが真実でないとすると、聖書は根底を覆されるのです。
なぜでしょうか?

それはイエスキリストがノアの箱船に言及しているからです。
ただ何かの教訓として語っていればそれほどの問題ではなかったのでしょうが、
ノアの箱船の事件を自分の再臨の事件と重ねて、語るのです。


マタイ 24:37
『人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。』

そうです。再臨の裁きをノアの箱船の裁きと重ねています。
であるとすれば、イエスキリストの再臨の第一の目的である裁きと、
ノアの箱船の時の人間にたいする裁きが重なっているという意味です。

ここで、ノアの箱船が全世界的に起こり、すべての人に望んだ裁きであることが非常に重要になります。
すべての人が裁きを受け、主なる神様を信じて従ったノアとその家族が救いを受けたのです。
ノアの箱船の門を通ったものだけが救われました。

イエスキリストの再臨も同じです。
全世界的にすべての人に望む神様の裁きであります。
しかし、イエスキリストを信じるものは、イエスキリストという門を通った者として、救われるのです。

この完璧までな類似を持ってイエスキリストは、
私が再び来るのはノアの時と同じだとおっしゃいました。

ですから、ノアの箱船が地域的な洪水による者であったとすれば、
すべての人に望む裁きという神学的意味が薄れるのです。
というか、イエスキリストが旧約聖書の権威を認め、旧約聖書を全くの真実として受け入れていました。
ノアの箱船の事件を聖書通り受け入れないのであれば、信仰上の問題は免れません。

これは信仰上の問題です。
ノアの箱船が科学的に歴史学的に起こったかどうかの問題を言っているのではありません。
(もちろん、それを追うのも重要ですが)
信仰上の問題として、ノアの箱船はそのままの事実として受け入れる必要があるのです。

聖書は、一つの箇所の解釈を曲げると、違う箇所で問題がでてくる書物です。
神学的なつながりが非常に深いからです。
首尾一貫したテーマ、主なる神様の愛がどこにでも書いてあるからです。

それをそのまま受け入れるのが、一番論理的であります。
もちろん、そこに信仰という目に見えない者を素直に受け入れる心が必要です。
ですから、イエスキリストは、子供のように受け入れなければ・・・とおっしゃったのです。

有神論的進化論は、無神論者が作った進化論という土台にたって、
そこに創造主をくっつけたので、神学的な矛盾をはらまざるを得ません。
もちろん、それを回避するような試みはたくさんなさてはいるのでしょうが、
絶対的に難しい物もたくさんあります。

どの主義主張も凝り固まるべきではない。
それは良い主張だと思います。
人間の理性で、どれが真実かを判断することはできません。
理性は曲がるからです。

私が立っている福音主義も、実は間違っているということもあり得ます。
有神論的進化論も、同じくあっている間違っているかは人間の理性には判断できないのです。

といって、判断できないのだから、
なにを考えてもよいだろうということにはなりません。
後で考えたいと思いますが、多元主義は、最も高慢で自己中心な主張です。

私たちの理性は曲がるかもしれませんが、聖書は曲がりません。
信仰において受け入れがたい物は、妥協してはいけないと思います。
イエスキリストが行った奇跡を全部抜いた自由主義神学が力を失ったように、
それは、信仰の力を失うのです。


まとめですが、有神論的進化論は科学と聖書を混ぜてよく説明したように思えます。
しかし、聖書をそのまま受け入れることがどうしてもできなくなるのです。
そして、信仰というものは、聖書をそのまま信じてこその信仰ではないでしょうか?

自由主義神学の出発点は、聖書の奇跡を物語だと考えました。
それらを理性的に解釈すれば、もっと聖書が信じやすいのではないか?
というモチベーションがあったはずです。

しかし、奇跡を抜いた聖書は骨抜きでした。
それはそれほど信じる価値のないものに転落したのです。
実際、自由主義神学を持つ教会は伸び悩み、自由主義神学は大きな転換点を迎えています。

有神論的進化論も、そのようにならないことを祈ります。
進化論を信じている人たちが創造主に出会いやすいように思えますが、
実際に聖書を読むならばその矛盾が見えてしまいます。
結局、信仰が弱くなり、最悪だめになってしまう可能性があるのです。

父なる神様が進化過程を用いて、この世を作られたと考えるのは自由です。
そちらの方が理性的に見えるでしょう。
しかし、その自由を行使した代償は非常に大きいのです。

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# by creation_tsunya | 2010-06-02 22:01 | 創造論

有神論的進化論パート3

今回考えるのは、死の問題です。

人間が、共通祖先を持って進化してきたとするのであれば、
人間が死ぬ前に、何万世代という動植物の死が存在したことになります。

聖書は、創世記3章でどのように言っていたのかご存知ですね。

『お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る』創世記3:19

創世記3章では、アダムが罪を犯したから、土は呪われ人間は死ぬ存在となったと書いてあります。
ここから「死」というものが始まるのです。
「死」の原因が「罪」の問題であるからこそ、逆説的に人間には救いがあるのです。
イエスキリストによって救われるということは、罪の赦しであり、
それは死の問題の根本的解決法なのです。

だから、

『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』ヨハネ3:16

この宣言が大胆に聖書ではなされているのです。
罪から出発した「死」の問題の解決は、罪の赦し、つまりイエスキリストを信じることにあり、
それを通して、死から生へ、永遠の裁きから永遠の命へとうつっているのです。

アダム以前に死があったんだとすれば、死の根本的原因はなんだったのか?
なぞになります。
何のために、イエスキリストが死んだのか?理由がわけ分からなくなります。

聖書以外で、人間の死の根本的理由を述べた書物はありません。
「死」は明らかに、「罪」が原因であるのです。

よって、人間が生まれるまでにたくさんの死が必要な進化論は、
神学的に受け入れることが出来ません。
これは、イエスキリストの十字架の死の神学を根本から覆してしまうのです。


さらに、「死」を乗り越えた存在としてのイエスキリスト、
復活した、正確には復活させられたイエスキリストの神学も弱くなります。

私たちの永遠の命の証しは、イエスキリストの十字架の死と復活にしかないのです。
これが揺らぐ神学は受け入れる価値はありません。

ペテロがこういっています。

『あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、
キリストによって信じています。
従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。』1ペテロ1:21

進化論が、人間以前にたくさんの「死」を必要としている限り、
聖書の神学と真っ向からぶつかります。
しかも、それは私たちの希望である、救いに関する神学、
永遠の命に関するものの意味を陥れるのです。

この意味で、進化論は神学的に受け入れることは出来ない思想なのです。
私たちが、イエスキリストに希望がない、
もしくわ、薄いとするのであれば、私たちに生きている意味があるでしょうか?
そんなものは、ないのです。
有神論的進化論は、ここで破綻をきたすのです。

さらに、ノアの箱舟の問題にも関連していきましょう。

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# by creation_tsunya | 2010-05-26 21:14 | 創造論

有神論的進化論2

有神論的進化論は、現代の宇宙物理や生物学の微妙な場所を内包しながら、
創造主による導きを肯定して、聖書をも否定しない、という主張でした。
さて、今日はその問題点について。


有神論的進化論は、科学の面においては何の問題も生じません。
そのあたりは、全てを受け入れているので、そりゃあそうですね。
一般啓示から人間の理性が考えたものを重要視しています。

さて、一般啓示と特別啓示がぶつかったときは、
どうしてもどちらかの主張を妥協しなければなりません。
で、有神論的進化論はやはり無心論者が考えた進化論の土台に立つため、
聖書解釈を妥協しまくるんですが、それは容認できない程度にまで来るので、問題なのです。

もちろん、この辺は発展途上ですから、
みことばとのうまい妥協点が図れる主張が未来生まれるでしょう。


さて、神学上の問題は何点からあります。

まずは、軽いものから紹介します。
それは、創世記1章で出てくる「一日(Yom)」の解釈です。

創世記では6日で天地が創造されるのですが、137億年を受け入れた瞬間に、
この「一日」というのが、約24時間を示す「一日」とはありえなくなります。

で、聖書解釈上この「一日」を「一時代」と考えれば解決すると考えています。

『愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。
主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。』2ペテロ3:8

この解釈を適用しているのです。
しかし、これは大きな問題をはらんでいます。

第一に、創世記においては、この「一日(Yom)」という言葉が、
長い時代という意味で使われたことが一回も無いということ。
創世記1章のみを特別扱いする解釈は、恣意的としか言いようがありません。

1日目と2日目の間に、大きな時間的隔たりがあると解釈する人がいますが、
天地創造はこの6日間の連続的な流れで出来上がっていくことに意味があるのです。
ビッグバンと、聖書を無理やりにこねくり回した、苦肉の策としか言いようがありません。

さらに、ビッグバン宇宙論によれば、太陽系進化は太陽が先ですが、
創世記は地球が先です。その後に太陽、月を作って、地球を回したと書いてあります。
聖書の記述を捨てるっていうなら問題になりませんが、そんなことは本末転倒です。
この矛盾は決定的に解くことが出来ません。

(ちなみに、太陽系の歴史がどのようだったかは、いまだに謎です。
天文台で天文学者に聞きましたが、分からない。と正直に答えられました。
系外惑星で、太陽の自転と反対に回る惑星が発見されたりして、どんどん謎になっていっています。)

創世記に長い時代という意味で「一日」が使われていない以上、
創世記1章の「一日」は地球自転一回転分の約24時間と解釈すべきであるのです。

こうして始めて、一週間は7日間であることに意味が生まれます。
人間にぴったり合った、周期は7日間です。
人間に合わせて、全能なる主なる神様が、
わざわざ7日間 『も』 かけて天地創造をした、というのが本当のところです。
どこまでも、人間に合わせてくださる神様の愛を見ることが出来ます。

ちなみに、6日間で天地創造した科学的根拠なんて無いです。
聖書以外に根拠はありません。
若い地球、古い地球の話は、別の機会にしたいと思います。これも重たい・・・。


さて、「一日」なんていう問題はまだまだ序の口です。
次はかなり大きな問題、「死」の問題です。
扱っていきましょう。

考えるべきは、死はどこから来たのか?です。

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# by creation_tsunya | 2010-05-26 09:06 | 創造論



福音的な立場で創造論を考えていこう

by creation_tsunya
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