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創造論を考えよう at 東京ビリングストーン教会

カテゴリ:創造論( 23 )

スタンリー・ミラー実験

1953年スタンリー・ミラーがシカゴ大学の大学院生のときに、
行った実験がかの有名なミラー実験です。

ミラー実験では水素を含んだ、メタン・アンモニア・水蒸気からなる混合気体を、
地球の原始大気として採用し、図のようなプロセスを経て、
電気スパークを与えれば、アミノ酸が自然的に合成されるという実験でした。
f0213901_2151089.jpg

(図は、ウィキペディアから頂きました。)
つまり、無機物はただの電気スパークによって、自然的に有機物を合成できる!!
という画期的な実験だったのです。
ついに、生命の元である有機化合物、
アミノ酸が誰の手を借りずに、合成できたという宣伝が広まりました。

その与えたインパクトはかなり大きなものでした。
後に見るように、この実験が正しくなかったにもかかわらず、
たくさんの科学の教科書に残っており、
実験の意義の有用性を付加し、いまだに影響力を持っているのです。

さて、この実験の何がまずかったのでしょうか?


第一にその前提である原始大気が、後の研究で誤りであることが分かりました。
地球惑星物理学者は、原始大気の組成を水素やアンモニアではなく、
二酸化炭素・窒素・水蒸気であったとしています。

さて、この原始大気組成でおなじミラー実験を行うとどうなるでしょうか?
もちろん、アミノ酸は合成されません。
つまり、ミラー実験は失敗に終わったのです。

中には、有機分子が合成されると書いてある事もあるみたいですが、
残念ながらその有機分子はホルムアルデヒドなどの猛毒物質であり、
生命には程遠いということが分かっています。いわゆる死体防腐剤です。


いまや、ミラー実験は否定され、生命の起源はわけが分からない状態になっています。
よくニュートンとかに乗っているのは、「RNAワールド」のようなものです。
RNAからDNAへと進化していったというプロセスです。
しかし、RNAがどのように作られたか?
RNAが原始地球環境をどのように行きぬいたか?を説明することはできません。
とあるジャーナリストはこのように述べています。

「生命の誕生家庭について、科学者は皆目見当のつかない状態にある。
一般的に受け入れられている理論は存在しない。
研究者は、生命の元である化学物質への進化過程をあれこれ説明されているが、
評価に値するものはない。」

無機物から生命までの自発的発生を、
説明することのとてつもない難しさを考えると、
科学者にとって生命自体が「奇跡」であるといっても過言ではないのです。
実際、宗教を毛嫌いする科学者たちの口からもその言葉が出ています。
たとえば、DNAの2重螺旋を発見したクリックもこのように述べている。

「正直のところ、現存の知識を総動員して言えることは、
生命誕生の為に満たされるべき条件が非常に多いため、
現時点では生命の起源はまず奇跡とした思えない。」


そうです。生命の発生は、科学を通してでも奇跡を持ち出すしかないのです。
自然発生的な説明が見つからず、その可能性さえないのであれば、
超自然的な説明を求めるのが最も合理的であると、認めざるを得ません。

いまや、自然的なプロセスでの生命の誕生を主張することは、
超自然的な推論を主張することよりも完璧な信仰が必要な時代なのです。

主なる神様は、ぐうの音も出ないくらいの完璧さで生命を作られました。
創世記には「きわめて良かった」と書いてあるとおりです。
自然を見れば神の神性が現されているとするローマ書のみことばは真実なのです。

さらには、物理学のファインチューニングで見たように、
そのように調整された世界には、自分の存在を知らしめ、
気づいてほしいと思う主なる神さまの愛が見えてくるのです。


さて、次は、ヘッケルの胚についてみていきたいと思います。
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by creation_tsunya | 2010-03-24 21:25 | 創造論

創造論のイコン

今まで創造論について考えてきましたが、
少しブレイクして進化論について考えてみたいと思います。

好きか嫌いかというカテゴリーで言えば、
私は進化論の論理的思考は結構好きです。
なるほどな~と思ってしまうふしがたく差あります。

進化論は聖書がなければ、
その理論は非常によくできていて強力な仮説となります。
しかし、進化論は聖書の前では、色あせるというか、足りなすぎるのです。

聖書は、人間が抱える問題すべてに解決を見出すことができます。
しかし、進化論はある部分の問題しか考えることができないのです。

創造論が聖書の論理を強め、主なる神様への進行を強める一方で、
進化論は、無神論的な唯物論の世界観を展開し、
絶対者のいない世界、まったく愛がない世界を強めます。

進化論者はその世界観に愛がないことを認めなければいけません。
すべてを偶然としたときの、冷たく乾いた世界をまじまじと見る必要があると思います。


今回は進化論におけるよく知られたイメージについて話していきます。
ミラー実験、ヘッケルの胚、進化系統樹などです。
それは、すべて教科書で習ったり、私たちの記憶に新しいものでありますが、
あるものは失敗、あるものは捏造、あるものは証拠不十分・・・と、
その意味は薄れているものばかりです。

しかし、これらのイメージは一人歩きして、
強力な証拠のように思えてしまっています。
これを一つ一つ検証していきましょう。
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by creation_tsunya | 2010-03-20 01:26 | 創造論

ベイズ理論による奇跡の評価と信仰 続編

さて続編です。

ベイズ理論に対する批判のひとつとして、事前確率に主観確率を使う点が上げられています。
先ほどの、病気の検査の話では、病人がいる確率を勝手に決めているという点において、
その確率に客観性がなく実際のデータを反映していないという批判です。
これは、ごもっともなことです。

しかし、実際は、迷惑メールの振り分けのように、何度かベイズ定式を適用して、
主観性を持った事前確率を、実際の事実に基づく事後確率に変換して、
学習させていく(絞り込んでいく)というプロセスを経るため、問題は生じません。

何回かの事象を経れば、事後確率はかなり正確な値を取ることができます。
もちろんスパムメールの振り分けは完璧ではないですね。
私もなんどか、本物がスパムと判断されて、やられました・・・。


それで、奇跡の問題を考えるときは、この主観確率っていうものが有効なものになります。
さて、トランプゲームを考えて見ましょう。

トランプを2回引いて両方ともハートのエースである確率は、1/2704です。
なかなかありえない確率です。
しかし、ここでちょっと細工しておきます。
実は、1/100の確率で全部ハートのエースであるトランプセットを紛れ込ませておくのです。

こんな状態で、実際にハートのエースを2回引いてしまいました!
さて、この時細工されたトランプセットを用いていた確率はどうなるでしょうか?

計算しますと、
ハートのエースを2回引くという確率は、二つの場合に分かれます。
普通のトランプセットから2回引く、細工されたトランプセットから2回引く・・・です。
それぞれ確率は、99/100×1/2704、1/100×1、この足し算が分母です。
分子は、実際に細工されたトランプセットだったという確率ですから、1/100です。

と言うことで、ベイズ定式に入れますと、事後確率は、
P(B|A)=1/100/(99/100×1/2704×1/100×1)~0.96
なんと96%で、細工されたトランプセットを引いた!と言うことが定性的に議論できます。

これは、人間の思考と非常にマッチングしています。
1/2704の確率でハートのエースを2回だすのはありえないことです。
しかし、実際にそれが起こってしまっているので、
これは細工されたトランプセットであるに違いない、と考える思考手順と同じです。

数式にすると、この「であるに違いない」というあいまいな表現が、
96%と言う具体的な数字になっているだけです。


さて、奇跡の問題を考える前に、細工されているベイズ定式を考えるときは、
以下のようにその公式を書き換えることができることに注目することができます。

P(B|A)=P(C)/((1-P(C))×P(A')+P(C))
ここで、P(C)とは細工されていると思う主観確率です。

つまり、事後確率はP(C)の関数としてあらわにされるというのがミソです。
(文系の方、すいません。)

たとえば、がんが癒されるという奇跡を考えて見ましょう。
がんが自然治癒される確率は、ほぼゼロです。
100万分の1か、1000万分の1か、それよりぐっと少ないでしょう。

P(B|A)=P(C)/((1-P(C))/1000000+P(C))とかになります。
つまり、ここでP(C)をそれが細工されていると思う確率、つまり奇跡であるという主観確率を、
どう評価するかによって、この事後確率は変わるわけです。

実はP(C)がP(A')と同程度で事後確率は50%、2倍で67%、10倍で91%になります。
急激にP(A')と比べて少しでも大きくなれば、急激に1に近づくのです。
グラフにしてみました。論文っぽいな~。
f0213901_2151220.jpg

この図はP(A')を100万分の1に調節してあります。グラフ上では10-6乗のところです。
大きいグラフは、縦横ともに特別な軸にしてあります。
logスケールってやつですが、まあ、気にしないでください。
見てみますと、事前確率がP(A')程度までは、事前確率に比例して事後確率が伸びてきます。
ただ、事前確率がゼロに近い10-7乗だとしても、事後確率は0.1もあります。
ちなみに、linearスケールで見ますと、ほとんど全域で1に近い値です。


つまり、実際に100万分の1の確率で癒されるがんだとすれば、
細工された奇跡が起きる確率が、10万分の1だけ心で思っていても91%奇跡だと断言できます。
ほんの少しの主観確率があれば、目の前で自然治癒してしまったがんは、
それが何らかの細工された奇跡やらドラマ、ある意味ペテンだった可能性はかなり高いのです。

つまり、確率論的には、ありえない事象が起こったら、
それはほとんどの場合、裏に何かあると考えてよいことになります。
がんが自然治癒された!事件が目の前で起こったら、
それは偶然ではなく、何か外的な力が働いたと数学的に考えてよいのです。

要するにすごいのは、奇跡が数学的にも認められる!ことです。


ただ例外があります。
奇跡なんてないと主観確率をおく場合、つまり事前確率が0である場合は例外です。
この時は、がんが癒されたのは、完全な偶然だったと考えることができます。
だって、事前確率が0なら事後確率も0ですから・・・。

これは何を意味するのでしょうか?
つまり、次のみことばをベイズ理論は数式化に成功したと言えます。

マタイ13:13
『見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』

ファリサイ派たちは、イエスキリストのすべての奇跡を見たにもかかわらず、信じませんでした。
これは、イエスキリストの奇跡に問題があったのではありません。
ファリサイ派の人々は、イエスキリストのすべての御業に対して事前確率が0であったのです。
最初からイエスキリストがメシアであることなんて信じようと思っていなかったのです。
信じようとしていなかったので、信じることができなかったわけです。

ラザロと金持ちのところでもこういうみことばがあります。

ルカ16:31
『アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、
たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」』

モーセと預言者に耳を傾けないのなら、つまり、モーセや預言者の話を信じようとする心がなければ、
死者の中から生き返るという奇跡的なことが起きても、信じないということです。
事前確率が0であるなら、事後確率も0なのです。


神を見れば信じるという人が時々います。しかし、彼らに神を見せてもだめなのです。
彼らに信じる心、奇跡を受け入れる心がなければ、奇跡は彼らには無意味なものとなります。

このことは、聖書における真理です。
聖書は、信じようと思う人には信じることができて、信じようと思わない人は信じることができないのです。
心を開くことが重要であるのです。

黙示録3:20
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』


私は、いままでベイズ理論で、奇跡と言うものを数式化しようとしました。
なぜベイズが主観確率に基づく確率論を定式化しようとしたか?
それは明言されていませんが、ベイズは、信仰の問題を定式化しようとしていたのではないでしょうか?

ベイズ理論で奇跡を定式化するとき、聖書の真理にぶつかります。
信仰とはどのようなものであるのか?私達のなすべきことは何なのか?それが見えてきます。
強いメッセージを語ることができるのです。
牧師である彼は、それをやりたかったのではないか?と勝手に思っている私であります。


創造論ばかり話してきました。
次は少しずつ進化論について離したいと思います。
私は思います。
聖書に創世記1章がなかったら、進化論を有効的な仮説として選んでも良かったと思います。
その論理はある程度堅固ですし、納得いくところもあります。
しかし、残念ながら、それには数々の欠陥があるのです。

P.S.
私はこのように創造論を議論して、主なる神様の真実性。
聖書の真実性を論証していきます。

しかし、この明らかな結論、つまり聖書は正しいということを目の前に突きつけても、
たとえどんなに詳細に議論しても、信じない人は信じないのです。
それは、事前確率が0だからです。つまり、信じる気がさらさらないからです。

信じるにはどうすればよいのか?事前確率を0で無くせばよいだけです。
心を少し、変えれば良いのです。
残念ながら、それは議論でできるものではありません。
聖霊様の働きがなければできないことです。

これを読むすべての人の心が代わることを切に祈っています。

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by creation_tsunya | 2010-03-12 21:14 | 創造論

ベイズ理論による奇跡の評価と信仰

さすがに、長文をどかんどかん出すのは厳しいので、
小分けにしていきたいと思います。
読むほうも疲れますよね。

さて、ベイズ理論の話でした。
ベイズ理論は、いろいろ批判はあるものの非常に有用な確率論のツールです。
迷惑メールの判定に使われたり、潜水艦の探査などに使われたりもしました。

特徴は、ある事象が起きる前と、起きた後で、確率の価に変動を見ることができるということです。

まるで、人を信頼するときはこれと同じ形を取ります。
初対面ではある程度、みんな同じ信頼度を持っていますが、
いろいろ付き合っているうちに信用にたるか、足らないかで、
その信頼度、つまり裏切られる確率は変動していくわけです。

AさんBさんの信頼度は共に50%だったとしましょう。
でも、ある事件を通してAさんは信頼にたる行動をしてくれました。
Bさんはどうも裏切ったようです。
この事件が終わった後の信頼度は、Aさんが70%・Bさんが20%になった・・・。
こんな感じで、人間の認知と行動は決定されていきますね。

ベイズはこれを数式化しました。こんな数式です。
f0213901_19472448.gif

P(A)、P(B)は事象A、Bが起きる確立です。
で、P(A|B)は事象Bのもとで事象Aが起こる確率。
左辺のP(B|A)は、事象Aのもとで事象Bが起こる確率。

何言ってるかわからないところですが、P(B)は事前確率と呼びます。
これは、事象Aがまだ起こっていないときに予想される確率ですね。
で、実際ある確立で事象Aが起こったときに、
事前確率は、係数「P(A|B)/P(A)」分だけ変更になると言うものです。

がんの検査を考えて見ましょう。
病気ならば99%の確立で陽性反応がでます。
病気でないときは95%の確立で陰性反応が出ます。
患者の0.1%が実際に病気だったと仮定して見ます(事前確率)。

で、ある患者が陽性反応が出たとして、彼が病気でない確率はどのくらいでしょうか?

事象Aを陽性がでた。事象Bを病気である。と言うことにして、ベイズ理論によって計算してみましょう。

P(B|A)=0.99*0.001/(0.99*0.001+0.05*0.999)=0.019
これで、陽性のときの実際に病気である確立が出ました。
要請のときに病気ではないという確率は、98.1%であることがわかるのです。

ん?なんだか、陽性でも病気でない確立は非常に高いな・・・。と、
思った方も沢山いると思いますが、ちょっと待ってください。
もともとの、病気である確立は、0.1%なんです。
それが陽性反応によって、1.9%まで絞り込めている!と言うのがミソです。

つまり陽性反応という事象によって事前確率0.1%は事後確率1.9%に変化したのです。

ベイズ理論は、このようにたった1回の検査でも、
その真実性を大きく絞り込むことができたりするのです。


迷惑メールの判定は、そのメールが迷惑メールなら、事後確率を増やし、
迷惑メールでないなら、事後確率を減らす方向に補正をかけて、
また次のメールを判定して、さらに正確な迷惑メール判定を打ち出す・・・。
といったプロセスです。


こんなベイズ理論を信仰に用いちゃおうって言うのが、
すごいところですね。それは次回です^^

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by creation_tsunya | 2010-03-09 09:29 | 創造論

すばらしい逃亡劇:多元宇宙論

f0213901_8485456.jpg

このような、絵を科学雑誌ニュートンなどで見たことがある人もいるかもしれません。
これが多元宇宙論のイメージ図です。
もちろんいろんな多元宇宙があるのですが、
泡のように沢山の宇宙があってそのうちの一つが私達の宇宙だという考えです。

宇宙という英単語は、Universeですが、"Uni-"という接頭語は一つという意味です。
英語が発生した当時に、宇宙は一つである、
という世界観を持っていたからそうなったのでしょう。
(もちろん、聖書は宇宙がUniverseだと明確に主張しています)

そんなものを文字って、多元宇宙をMultiverseなんて表現したりします。


さて、この多元宇宙論が何で提唱されたのか?

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by creation_tsunya | 2010-03-05 09:46 | 創造論

物理学からみてみる

ここからは、すこし絶対者、つまり作り主の存在証拠を追ってみたいと思います。
天文学については少し触れました。
宇宙に始まりがあるとすれば、自動的に作り主を必要とします。というやつです。

さて、今回は物理学から考えてみたいと思います。

ちなみに、この辺は「宇宙は神が造ったのか?」という本から論理をいただいています。


物理学は、この宇宙をモデル化して記述する学問です。
良くそのモデルを方程式で表現するので、物理ではたくさん数式を使います。

さて、物理の方程式に出てくる、物理定数というものがあります。
この物理定数が、重力や核力や電磁力などのいろいろな力、
その大きさなどを決めているのです。

さて、問題はその物理定数の多くが、生物が生きれるように、
非常によく調整されているということが最近わかってきました。


重力を例にとって見ましょう。

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by creation_tsunya | 2010-02-26 02:57 | 創造論

創世記1:1から見る神様の愛

創世記1:1シリーズもこれが最後になりました。

『はじめに、神は天地を創造された』

この節から、創造主が持つべき性質などを詳しく見てきました。
繰り返しですが、それは永遠・自存・人格です。

さて、今日は『天地を』に焦点を当てたいと思います。

天地は英語で言うと「the heaven and the earth」
ヘブライ語原典では 「 את השׁמים ואת הארץ׃ 」(エト ハシュミーム ブエト ハエレツ)です。

英語がほぼ原典どおりに訳されていますので、英語を見ればわかりやすいと思います。
天とは空間としての役割を担うもの、物理学的に言えばxyz軸だといえます。
そして、地とは地球、つまり、私たちがいま足を乗っけている地球だといえます。

なんと、創世記によれば、地球が一番最初に作られるのです。
光さえないときのことでした。

私は、まだビッグバン理論の持っている危うさ、
現行の太陽系進化論の持っている危うさ、
さらに生物進化論の持っている危うさについて述べていません。
これを順々に述べるわけですけど、今は、それらは怪しさを持っているとだけ認識してください。

つまり、私たちが良く知っている、NHKスペシャルとかでよくやる、
地球の歴史46億年ていうやつは非常に危うい理論だということです。
私たちは、宇宙のでき方も知らないし、太陽系が出来上がり方も知らないといってよいのです。

さて、創世記は地球を一番最初に作ったと書いてあります。
これは非常に重要な意味を持っています。
つまり、地球が非常に特別な場所であると、聖書が言っていることになるからです。

地球が宇宙全体からしても非常に得意な存在であることも後で見ますが、
科学的な観測事実は地球が非常に特別で恵まれているということです。

聖書は、最初から地球を特別なものとして扱います。
人間が住む入れ物だからです。『天地』は人間が生きるに必要な入れ物なのです。


ビッグバン、太陽系進化、生物進化のもたらした、
大きなパラダイムシフトは何だったでしょうか?
それは、この宇宙が、この地球が、私たち人間が、
取るに足らないもの、別にどこにでもあるマイナーなものであるとしてしまったところにあります。

つまり、この世の造り主である神様の役割を排除して、
人間をその神様の統治から解放し、真の自由をもたらそうとしたのです。

しかし、歴史はそうならなかったことを物語っています。
それらの思想は、神様から人間を開放したかもしれませんが、
人間は別のものに縛られて生きるようになりました。
金に、名誉に、快楽に、罪に、そして人間自体に・・・。

進化論のもたらした社会的な影響は悲惨なものでした。

進化論は、社会主義を推し進めました。
進化論は、ドイツのナチスの思想基盤でもありました。
進化論は、世の中の悪い人たちの使い勝手の良い道具になったのです。

主なる神様からの解放は、人間を自由にするのではなく、
自身の罪にさらに強く縛られ、自由を奪う結果をもたらしました。

このすべての出発点は、宇宙を、地球を、
そして、人間を取るに足らないものと考えたところにあります。


しかし、聖書は真っ向からそれに反対します。
創世記1:1で作られたのは、宇宙であり、地球であったのです。
人間は、用意周到な6日間の創造の後に最後の日に作られます。
すべてが特別な存在として創造されたと書いてあります。

創造主は人格を持っていなければならないといいました。
この人格の基本的な性質は何でしょうか?

たとえば、熱帯魚を飼う事を考えましょう。
熱帯魚を飼うのは結構骨が折れます。
水槽を用意します、砂とか家とかを用意します。
水槽なんかはやして、そしてポンプも買います。
水もPHを図ったやつを入れなければなりません。
照明とか温度もこだわりが必要になります。

そうして初めて、すべての準備が整って初めて熱帯魚をその水槽に放すのです。
この時私たちはどのように熱帯魚を離すでしょうか?

「元気にそだってね」

この心で、離すと思います。
誰も「おまえ、今日から支配してやるからな!」といって離しません。
いろいろ、準備したのは、なぜですか?
熱帯魚が好きだからです。愛しているからです。
だから「元気にやってくれ」という気持ちで離します。

主なる神様も同じです。
特別な存在として人間を作ろうとされました。
そして、天地から造り6日間の創造をなさって最後に人間を作り離すのです。

この時の神様の心は、愛である以外ありません。

熱帯魚を飼う時にそれに関する道具をすべてを特注品で、
いや、自作して作ったとすれば、その愛はどれほど深いのでしょうか?

創世記1:1、天地を造られた、そのとき。
神様の心は愛でありました。
人間が生きるための入れ物、「天地」を自作ですばらしく特別に造られたのです。
一番最初にです。


勘違いしてはいけません。
別に地球の周りに太陽が回っている、天動説を復活させているわけではないのです。
主なる神様の関心の中心はどこにあるのか?ということです。
それは地球であり、人間であるのです。

つまり、ホーキングスが言った言葉、

「何千奥にも及ぶ銀河系のひとつのそのはずれに位置する、
きわめて平均的な星のマイナーな惑星に住む、
全く持って取るに足らない生き物が人間である。
だから神が人間のことを気にかけている、
あるいはわれわれの存在に気づいていることすら、私には信じがたい。」

というのは、聖書の言葉から完全に否定されるのです。
地球は、非常に特別な位置にあります。
実際的にも、また神様の意味合いにおいても。

人格的な神様の性質は愛です。
人間を愛し愛しぬかれた神様の愛が、既に創世記1:1に表されています。

これから、物理学、地球惑星物理、情報学、などなどから興味深いトピックをあげていきましょう。
途中で、科学と宗教の関係や、進化論に対するチャレンジなども含まれます。
ながいっすね。

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by creation_tsunya | 2010-02-24 00:45 | 創造論

創世記1:1続き

創世記1:1
『はじめに、神は天地を創造された』

『はじめに』だけで、かなりいきました・・・!
この始まりの科学的な考察から、はじめた主体である神という存在は、
永遠・自存・人格を持っている存在でなければならないのです。

創造主になれる条件がある程度決まっているのは、驚くべきことです。
論理一貫した枠組みの中で、神様というものが表されているのです。
つまり、神様だからなんだっていいじゃん、というものはできないのです。
ですから、聖書の神様は、理論的な帰結として創造者の役割を担うことができます。

これは私たちの印象とは違います。
神様といえば、なんでもありのオールマイティで、
あらゆる制限を受けるような存在ではない・・・と思いがちです。

しかし、実は創造主というものはある論理的な縛りをもった存在です。
驚くべきことに、聖書の神様が持っている性質が全くそれと一致しています。

ある縛りの中で、条件が一致しているというのは、
すなわち、その創造主が聖書の神様であると、
論理的な帰結としてイコールで結ぶことができることを意味しています。
私がそれであると、はっきりということができるように「調整」されているのです。


さて、今回は「神は~創造された」を見てみましょう。

この文章は、非常に面白い文章になっています。
主語である「神」は、エロヒームです。
ヘブライ語では、複数形で表現されている言葉です。

じゃあ、神々??え?聖書の神様はひとつじゃなかったの?
なんて言っている方、あせってはいけません。
ここで、神々と訳さなかったのは、理由があります。

動詞の「創造する」という単語「バラー」は、
単数の主体が動作するときの表現を使っています。

つまり、この文章、主語が複数にもかかわらず、動作は単数なのです。
これは、全く理解できない文章です。
創世記は文法的に間違ったのでしょうか?

そうではありません。
この文章を理解するためには、ある神学的な教理を理解しなければなりません。
いや、この教理は理解できないのですが、とにかく知らなくてはいけません。
つまり、それは三位一体です。

三位一体とは、神様は三位(三つの位格:人格に近い)を持ちながら、
一つの存在として働くという意味です。
父なる神、子なるイエスキリスト、霊なる聖霊の三位がありながら、
神様はひとつなのです。

はい、理解できません。というか理解できないのが自然です。
なぜって、これは信仰の問題なのです。
旧約聖書を認める一神教は、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教です。
しかし、三位一体を認めるのはキリスト教のみです。

どの教科書見ても、認識されて分類されてませんが、
この三つの一神教の神様は同じ神様ではありません。

ユダヤ教徒、イスラム教がこの創世記の文法的矛盾を、どう理解しているかわかりません。
しかし、キリスト教では矛盾とはみずに、三位一体を見ることで理解します。

つまり、こういう風になります。
複数で表現された神とは、まさしく三位一体の神様をあらわします。
三位がいるので複数で表現されているのです。
しかし、一体である、つまり神様はひとつなる方なので、
動詞は単数で表現されているのです。

『神は~創造された』から、三位一体の神様を見ることができるのです。


『はじめに、神は~創造された。』から、神様の大切な性質を導き出してきました。
それは、永遠・自存・人格・三位一体です。
もちろん、この世の中をスタートさせたくらいですので、
全知・全能であるというのはそんなに難しくありません。

創世記1:1のみことばから、神様の性質のほとんどを導き出すことができます。
これは本当に驚くべきことです。
聖書が一番最初から、ものすごい論理で、
すごい緻密な計算のされた伏線を張り巡らせていることになります。

まさしく、聖書は『神の霊の導きのもとに書かれ、』です。

この聖句をみて、かの新島襄はクリスチャンになりました。
そのくらいに、この聖句は重要です。大胆です。力があります。
主が、隠された大いなる計画。大いなる真理。
これを調べることは大きな祝福であります!!

さて、最後に『天地を』を詳しく考えて、神様の愛を引き出したいと思います。

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by creation_tsunya | 2010-02-20 00:05 | 創造論

宇宙の始まりは「無」?

まずは下の図を見ていただきましょう。
国立天文台がつくり、一家に一枚とうたっている「宇宙図」です。
(ちなみに、私はこの宇宙図を作った部署にインターンシップしてました^^)
f0213901_0341012.jpg

この左端に「無」という言葉が書いてあり、宇宙が「無」が出発したことが明記されています。

詳しい説明文を読むと、

「宇宙の始まりについて、ある説では、宇宙は「無」から生まれたとしています。
「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態。
しかしそこでは、ごく小さな宇宙が生まれては消えており、
そのひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だというのです。
また生まれたての宇宙では、時間や空間 の次元の数も、いまとは違っていた可能性があります。」

と書いてあって、あるひとつの説でしかないことを明記していますが、
ポスター全体では「無」と大きく取り上げてあります。

ここで、しかし・・・といってその後の文章を見てみますと、
「ごく小さな宇宙が生まれては消えており」と書いてあります。

ん?生まれては消えて・・・?それって「無」なのか?と、
疑問に思った方は鋭いと思います。まさしく、そこが突っ込みどころです。

この状態を「量子真空」といいます。
量子真空では、エネルギーに揺らぎがあり、
ある確立でプラスになったりマイナスになったりしている状態です。
もちろん、平均的にゼロなので、真空といっているのですね。

この状態からは、偶然にエネルギーは生まれては消えています。

私たちは真空というと、何もない状態、「絶対無」を考えてしまいがちです。
しかし、量子真空は全く持ってそうではありません。

量子真空はマイナスのエネルギーが完全に満たされている。
目には見えませんが、エネルギーが満タンです。
そのエネルギーの海の表面で、ゆらゆらプラスとマイナスを揺らいでる状態です。

つまり、宇宙の始まりは、「無」ではなく量子真空という状態から始まったことになります。

では、量子真空はどこから来たのでしょうか?
量子真空もカラム論で言うところの、原因をもった結果物であるといえてしまうのです。
つまり、量子真空は宇宙のスタートにはなり得ないのです。

「無」という言葉のイメージが悪さをしているのですけど、
世の中に絶対無というものは考えることはできません。
そんな絶対無から有が出来上がることは、絶対にないのです。

有が出来上がるための「無」は、量子真空で見たように、
すごくいろいろ存在している、特別な無なのです。


『はじめに』でいろいろと議論してきましたが、
宇宙の始まりは、無でもなく量子宇宙論的な虚時間の球面でもありません。

なぜ、宇宙が存在するか?という明確な問いに対する答えは、
創造主がいるというものです。
しかも永遠・自存・人格を備えた方であります。

これは、現在観測された宇宙を哲学的、科学的に解析した結果です。
ほかの仮定は、いろんな意味での問題があり、それを採用することはできません。

創造主がいるという仮定ほど、
今現在、堅固にしてエキサイティングなものはないのです。


なぜ、聖書が「神」という存在を前提として書かれているのか?
なぜ、「神」という存在に対する説明を書いてから、天地創造の話に入らなかったのか?

それは、書かなかったのではなく、書く必要がなかったからです。

神様の性質は聖書を見れば、明らかになります。
聖書を見れば、主なる神様を知ることができます。
ですから、神様はこんな方です・・・と明記する必要は全くなかったのです。

こんなわかりにくい主は、意地悪な方でしょうか?
ちがいます。
エレミア書33:3を見てみますと、

『わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。』

「隠された」と書いてあるとおり、真理は隠されているのです。
なぜ?捜し求めるためです。

マタイ7:7
『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。』

見つけたときの喜びはすばらしいものです。
聖書の約束は、求めれば必ず与えられるということです。
呼べば答えるということです。

聖書は私たちの目の前にあります。
創世記1:1の『はじめに』の4文字を考えるだけで、
この世界を作られた主なる神様の性質を知ることができます。

聖書は何文字あるのでしょうか?
どれだけ主なる神様の性質を知ることができるのでしょうか?
このすばらしい聖書をもっと深く知りましょう!!
それで、主なる神様の愛をもっと感じ取るのです。


さて、『はじめに』の黙想はこの辺で終わりにして、
次に言ってみましょう。『神は天地を創造された』です。

ここに、三位一体の神様。さらにこの世界を作った目的も探ることができます。

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by creation_tsunya | 2010-02-17 01:13 | 創造論

量子宇宙論

標準的なビッグバン理論が提唱され発展した時、ビッグバンの最初の状態、
つまり、宇宙の始まりがどうなっているかは、あまり議論されていなかったようです。
それは特異点であるとしか考えられていませんでした。

しかし、カラム論において議論したように、
宇宙に特異点という始まりがあったならば、
特異点を作った存在があることが自明となります。
さらにその方は、永遠で自存で人格を持っている・・・つまり神です。

さあ、無神論的科学者は非常に困った状況に追い込まれました。

その上で、この前に話題にした定常宇宙論、
また振動宇宙論などが考えられましたが、
(もちろん、思考の順番はどっちが先かは知る由はないです)
物理的に現段階の観測とは適合しないので廃れていきました。
(WMAP衛星による観測によって、定常宇宙・振動宇宙議論の余地がなくなりました)

ここに、一人の天才が現れます。
スティーブンホーキンスです。ホーキンスは、無神論者です。
あるテレビ番組のインタビューで、こう答えているそうです。

「何千奥にも及ぶ銀河系のひとつのそのはずれに位置する、
きわめて平均的な星のマイナーな惑星に住む、
全く持って取るに足らない生き物が人間である。
だから神が人間のことを気にかけている、
あるいはわれわれの存在に気づいていることすら、私には信じがたい。」

実はホーキンスは地球が非常に特別な惑星であるかどうかをよく知らなかったので、
地球をどこにでもあるマイナーな惑星だと考えているようです。
(だって、地球惑星物理学者ではないですから・・・
ちなみに、地球って惑星の中でもかなり特殊です。それはまた後で。)
この考えから、彼は無神論的世界観にもとづいて物理学を勝負します。

彼は、特異点問題を回避する天才的な宇宙論を提唱しました。
それが量子宇宙論です。
私の頭では理解できませんが、これはすごい理論です。

彼は、点であった宇宙の始まりを、球面にしてしまいました!
バトミントンの羽を考えて見ましょう。
f0213901_20462258.gif

この羽の先は球面になっています。
バトミントンの羽の先へどんどん行こうと下へいくと、
いつの間にか、先っぽを通り過ぎて(先を認識せずに)上に上ることができます。

宇宙のはじまりは、このように境界や縁がない球面であるとしたのです。
そうすれば、宇宙の始まりは真空状態からの量子的な揺らぎによって、
「無」から偶然始まっても良いということになりました。

なんと、創造主の出番をなくしてしまったのです!
すごい、ホーキング博士!!

しかし、ある物理量を導入する必要がありました。
それは虚時間です。

虚数は、二乗するとマイナス位置になる数字です。
実際にはこの世の中では存在しない、数学上の概念的な数です。
しかし、非常に有用な数であり、量子力学はこれにより支えられています。

量子力学においても、実際の物理量を出すときは、
虚数の絶対値を取り、実数として計算しなければなりません。
虚数はあくまでも、便宜上の数であり、
計算しやすさのためのもの、それこそ虚像なのです。

しかし、ホーキンスは量子宇宙論において実数への変換をしませんでした。
なぜかって?
そりゃあ、実数に変換したとたん、そこには特異点が復活するからです。
宇宙の始まりを量子揺らぎからのスタートとして、特異点を避けたのですが、
結局、実数にしたら特異点が存在することになってしまった、のです。

ですから、量子宇宙論では虚時間は虚時間のまま、
宇宙のスタートの数学的な記述にとどまり、物理学的な実際の記述は避けています。
虚時間導入の科学的根拠はゼロでした。
ホーキンスは、自分の無神論的世界観に照らし合わせた宇宙論を構築したに過ぎなかったのです。

私たちは、もはや避けられない事実に直面しているのです。
宇宙には始まりがあるということです。
これは、科学的な観測データから基づいた、帰結です。

宇宙、つまり時空に始まりがあれば、それをスタートさせた存在が必要になるのです。
再三にわたって書きましたが、それは永遠、自存、人格を備えた存在。
つまり、ぴったり聖書の神にあたるのです。


次回は、『はじめに』というものの締めくくりとして、
「無」というものをもっと詳しく議論して、
唯物論的進化論が窮地に立たされることを示しましょう。


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by creation_tsunya | 2010-02-15 20:47 | 創造論



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