科学は事実+信仰です。
さて、今回は科学は事実でもないって言う点について。
これは、科学のプロセスが「観測」から「解析」、 そして「仮説」というプロセスを経てなされることを考えれば十分です。 観測された、データは事実です。 (この時点で、事実じゃないものをデータ捏造といいます。 恣意的に実験を操作したり、無い観測データをあるように見せかけたり・・・。これは犯罪ですね。) ちなみに、観測されたデータの復元性も非常に重要です。 ある実験室では、観測されるデータが、違うところでは観測されない!というのは、 どちらかが、間違っていることになります。 このようなことは、よくあります。 ただの装置が出すノイズだったり、環境による変動だったり、 それを拾って「ユリイカ!!」と叫んで喜んび踊るときもあります。無駄になるんですが。 いつどこでも同じ結果が出るって言うが信頼性あるデータといえます。 さて、よく間違えるのは、解析も事実じゃないか!という方がいらっしゃると思いますが、 解析は事実ではありません。 ここですでに、仮説に基づいた解析方法が選択されます。 信頼出来る解析方法だとしても、どのような統計モデルを取るか?によって、 解析されたデータの顔がかわってしまうことが多々あります。 経済指数というのは、ある数字が出ますが、 あの数字を出すのはかなりブラックボックスです。 今後の経済の動向を考えて、やばい数字が出た場合、 計算方法、つまり解析方法を変更してよい値が出るまでやる続けるとのことです。 要するに、解析もある意図があって、その意図のとおりに解析されます。 もちろん、どんな意図を入れたとしても、揺るがないデータというのもありますが。 そして、最後、解析を通して仮説を立てる段階。 同じ解析を見ても、違う仮説を立てることはもちろん可能です。 仮説とは、もちろん論理的に行われるのですが、どのような立場に立つかによって違う仮設になっていきます。 そして、ここには、立っている立場の問題、つまり、人間の思想が含まれます。 その人が、どんな考え、思想を持っているのか?が大切です。 その人の考えですから、そこにはその人の世界観、宗教とか信仰が大きく関わってきます。 つまり、自然科学が自然哲学である限り、哲学の範疇である限り、 人間の思想というのが入らざるを得ません。 というか人間の思想というのが、入らない人間の営みは無いですけれど。 程度の差はあれ、偏見が必ず含まれなければいけなくなるのです。 科学は真理ではなく、不確かであり、 事実でもなく、人間の思想、信仰が大きく関わる問題であるにもかかわらず、 「科学には信頼がおける」と人々が言っているのは、 ほとんどの科学は大量のデータがあって、それらは相互に反復可能だからです。 どの時代に、誰がやっても、同じデータが出ます。 どの時代に、誰がどんな仮説でやっても、同じ解析結果が出ます。 よって、どんな思想、信仰を持っていても同じ仮説を立てざるを得ないという状況がほとんどなのです。 無心論者だって、有神論者だって、古典力学は否定しないし、 太陽の周りに地球が回っているのも否定しません。 (もちろん、科学的には、否定されうる余地はあるんですよ。) それでは、問題はどこで出てくるのか? 次回はそれを追って、核心に段々迫っていきます。 ------------宣伝--------------- ↓クリックしていただけるとランキングが上がります。
by creation_tsunya
| 2010-05-22 00:48
| 創造論
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