すばらしい逃亡劇:多元宇宙論このような、絵を科学雑誌ニュートンなどで見たことがある人もいるかもしれません。 これが多元宇宙論のイメージ図です。 もちろんいろんな多元宇宙があるのですが、 泡のように沢山の宇宙があってそのうちの一つが私達の宇宙だという考えです。 宇宙という英単語は、Universeですが、"Uni-"という接頭語は一つという意味です。 英語が発生した当時に、宇宙は一つである、 という世界観を持っていたからそうなったのでしょう。 (もちろん、聖書は宇宙がUniverseだと明確に主張しています) そんなものを文字って、多元宇宙をMultiverseなんて表現したりします。 さて、この多元宇宙論が何で提唱されたのか? 物理学を見ると宇宙は非常に良くできているという話をしました。 生物が生きることができるように調整されており、 非常に恣意的であり、偶然と処理することができない怪しさを持っています。 聖書は、もちろん主なる神様の計画のとおり、 物理学に調整がなされてそうなっていることを語っています。 各物理パラメーターはものすごいファインチューニングがされています。 全部あわせると、概算で10のマイナス1000乗以上です。 コイン投げでは370回くらい全部表が出るような確立です。 つまり、仕掛けがなされているわけです。 しかし、無神論的な世界観を持っている科学者は、 そんな絶対的な存在を認めるわけにはいきません。 それで、こう考えたのです。 この宇宙が、10のマイナス1000乗くらいのファインチューニングがあるなら、 この宇宙以外に、10の1000乗個くらいの色々なパラメーターを持った宇宙があれば、 そのなかの一個が私達の宇宙であっても良い。 それなら論理的な矛盾はないと考えました。 つまり、なんかよく分からない空間に、 図のとおり、泡のように宇宙が浮かんでいるのです。 その一個一個は、いろんな物理パラメーターを持っています。 ある宇宙は、何にもないかもしれません。 ある宇宙は、ヘリウムぐらいはあるかもしれません。 で、その無限にある宇宙の一個くらいは、 私たちの宇宙があってよいじゃないか! すげえぞ。私達の宇宙は意図されて作られたわけじゃないよ! 無限個ある宇宙のひとつだよ・・・って感じです。 多元宇宙は、論理的というか哲学的には絶対者を排除したかもしれません。 しかし、科学的には多元宇宙を検証するすべは全くないというのが問題です。 宇宙の外にある宇宙を認識する手はありません。 光より早く情報は伝わらないのだとすれば、 宇宙の端を見ることさえできないというのに、 宇宙の外を観測することはできないのです。 確かめることができない、宇宙を想像してそれで良いじゃないか!と、 言っているのは、かなりこっけいな話です。 多元宇宙の証拠が全くない状況です。 ちなみに、多元宇宙論が正しかったとしても問題は解決されていません。 何故、そんなに沢山の宇宙があるのか?という疑問は残るのです。 結局その状況を作り出した創造者が居ないとならなくなります。 量子宇宙論でも、インフレーション宇宙論でも、この多元宇宙論でも同じです。 無神論的宇宙論はすべて、その理論が正しいことの科学的証拠に乏しいのです。 そう考えれば、物理学との折り合いがついて、うまくいくのでしょうが、検証不能。 これは科学ではありません。机上の空論ってやつです。 さらに、このような宇宙論は、他の疑問に答えてくれません。 何故、人間は存在するのか?何故、生きなければならないのか? 私たちの宇宙が、私達の存在自体が偶然の産物であれば、 哲学的には生きる必要はなくなります。 希望は消えるのです。 愛なんてもんは、脳みその活動以外の何物でもなくなります。 無心論者たちは、この冷えた世界を想像した事があるのでしょうか? 「主なる神様がこの世を作った」という仮説は、 科学的証拠、哲学的証拠に富んでいます。 それを淡々と語っているわけですが、 創造主の存在を仮定したほうが、沢山の問題を解決することができます。 一つの事象に対して説明する複数の仮定があった場合、 もっとも、沢山の事柄を説明することができるスマートな仮定が正しい、 とするのは、それこそ現代科学が採用する方法です。 この判断基準で、天動説は地動説に取って代わり、 定常宇宙論は、ビッグバン宇宙論に取って代わりました。 また、これはどんどんと発展していくでしょう。 この判断基準を採用するなら、 「聖書の示す創造主が存在する。」という仮定が採用されます。 この仮定は、万能なのです。 よく勘違いする人がいます。 神様なんだから、万能なのは当たり前だ。 何でもかんでも神がやったといっておけば、大丈夫だろう?と、 思っている人が多くいるかもしれません。 これを「間隙の神」といいます。 人間が分からないから、神を持ち出して、神様がやったから大丈夫という論理です。 この間隙の神という論理は私も反対です。 何の思考もなく、神様を持ち出すのは、いけないことでしょう。 ドーキンスは、間隙の神を持ち出すクリスチャンを、 すごく批判していますが、私も同感です。 「聖書の創造主が存在する」という仮説が、すべての問題を説明する。という論理は、 間隙の神を持ち出したわけではありません。 その仮定がもっとも論理的に自然だ、といっているのです。 それが、明らかだと。 『私が、道であり、真理であり、命である』 というイエスキリストの言葉は、だてに言ったものではありません。 真理である。というのは本当にそうなのです。 真理がすべての問題に答えを出すのは当たり前だからです。 それは論理的な思考を経て、証拠をもって真理だと判断できます。 とある、新興宗教はある論理を神秘という言葉で表現するものもあります。 もちろん聖書にもある程度の神秘があります。 しかし、論理的思考で理解できる範囲で神秘が存在し、 これほど説明できない事柄が少ないものもないのです。 信仰ということばで、逃げるクリスチャンが沢山いることは事実です。 しかし、イエスキリストはおっしゃいました。 『あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。』(ルカ 14:28 ) 計算してから、私に従いなさいと。 よくよく考えれば、それは明らかなのです。 聖書に従うのが最善な道であるということがです。 では、こういうかもしれません。 なぜ明らかな論理にすべての人が理解を示さないのか?と。 そうです。 聖書の論理は明らかですが、それを受け入れる人と、受け入れない人がいます。 これは、聖書の論理が不完全だからでしょうか? いえ、答えはそうではありません。 これを次回ベイズ理論によって、説明したいと思います。 ベイズ理論は、スパムメールの振り分け、地雷探索の最適化など、 現代の生活に非常に有用な確率・統計論です。 なんと、ベイズは牧師!すごい人なんですよ!! ------------宣伝--------------- ↓クリックしていただけるとランキングが上がります。
by creation_tsunya
| 2010-03-05 09:46
| 創造論
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