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創造論を考えよう at 東京ビリングストーン教会

宇宙の始まりの問題

前回から宇宙の始まり、創世記1:1に関して書いています。
『はじめに』のところで、たくさんの議論をしていくわけです。

さて、なぜ科学者は宇宙を無限だと思っていたのでしょうか?
何の証拠があったわけでもなく、
このような宇宙観を持ったのは、からくりがあります。


さて、世の中には因果関係というものがあります。
一般的には次のように理解されています。

すべてのものには、それが生まれる原因がありその結果として存在する。

というものです。
(どうも、「或る一定条件では」という記述を加えるのが最近の趨勢らしいです)
これを少し詳しく議論したのは、なんとイスラム教徒でした。

え?なんで?といわれる方もいるかもしれませんが、
イスラム教でも創世記を認めますので、
イスラム世界でも宇宙の始まりの議論は活発なのです。
(世界の一神教と呼ばれる3つの宗教が、創世記を認めているというのは偶然ではありません。)

そのなかで、因果関係においてこのような議論がされました。

なんであれ、存在に始まりがあるものには、存在の原因がある。

すべて、時間的なスタートがあったものは、原因があるということです。
ここでちょっと考えて見ましょう。
今見えているすべてのものは、みんなスタートがあったものですから、
それに対する原因があったはずです。
その原因であるものも、スタートしているはずですので、原因の原因があります。

この論法でずっと行くと、この世界がいま成り立っているならば、
世界の一番最初の原因、つまり、スタートがない存在、超原因が必要となります。

これを原因と結果を亀の子に比喩して、次のような図が作られています。
f0213901_17511082.jpg

亀が親亀、さらにおじいちゃん亀、曾じいちゃん亀、曾曾じいちゃん亀・・・・。
最後に、超原因である「スーパータートル」に達するというものです。

スーパータートルに求められる性質は何でしょうか?
ほかでもない、スタートがないという性質、つまり「永遠性」です。
永遠性というと、その存在には原因がない・・・ということになり、
自動的に、自ら存在するという性質がくっついてきます。「自存性」ですね。

さらに、スーパータートルは「人格」を持たねばなりません。
なぜですか?

或るものが存在している、ということに対しては二つの説明をなすことができます。
科学的説明と人格的説明です。
科学的説明は、ある特定の初期条件や自然法則からその事象を説明します。
人格的説明は、かかわった人物の意志から事象を説明します。

なんで、コップに水が入っているんだ?という事象を考えて見ましょう。
科学的説明は、気温が23度で水は、液体の状態で存在し、
コップという剛体によって支えられているから。とやるでしょう。
人格的説明は、水がのみたくてコップに汲んだんだ。となります。

さて、これを宇宙の始まりに適用してみましょう。
そこは、なんと時間さえないところ、空間もないのです。
つまり自然法則とか、初期条件とかいう概念さえありません。
ここに科学的説明を適応できるでしょうか?
答えは、無理です。

宇宙の始まりの問題を議論するときは、科学的説明は適応できないのです。

そこは、人格的な説明のみが適用できます。
つまり、宇宙に始まりがあったとするならば、
人格的な存在がそのスタートであった・・・と自動的に導かれるのです!

宇宙に始まりがあったとするならば、宇宙には超原因が必要です。
それは、永遠であり、自存であり、人格であります。
この三つを兼ね備えているのは、言うまでもなく聖書の神様です!
イエスキリストは、こういいました。

『イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」』ヨハネ8:58

『私はある』という宣言は、自分が永遠であり、自存であることを示した言葉です。
もちろん、イエスキリストは、人格を持っている方でありました。

この言葉はすなわち、イエスキリストが、自分が創造主の神であると宣言した言葉です。


さて、宇宙に始まりがあるとすれば、そこからスーパータートルは創造主の神様であり、
聖書の指し示す神様、もっと言えば、イエスキリストであることは論理的帰結です。
(もちろん、新約聖書を否定すれば、イエスキリストまでは到達できないですが。)

13世紀の神学者、トマスアクィナスはこういっています。
「宇宙に始まりがあったという前提からスタートするなら、
神の存在を証明する自分の仕事はあまりにも簡単すぎる」と。


ここでの前提は、「宇宙に始まりがあるとするならば」です。
無神論者的には、宇宙に始まりがあると、
創造主の存在を考えなくてはいけないので、都合が悪いのです。

で、宇宙は永遠であると、考えました。
前提を崩せばよかったのですね。
宇宙が永遠なら、それが超原因になればよいのですから。

このようなからくりによって、定常宇宙論が議論されました。

しかし、これには、ひとつ足りない議論があります。人格です。
宇宙に人格を持たせるというのは、なんとも不思議で、何の根拠もありません。
(私は、とある大学で「宇宙には心がある」というシンポジウムを見つけました。
無神論的な科学者は、これをまじめに考えています。)
すでに、よくわからない議論です。
無神論という自分の主張を通すために、危ない前提の橋を渡ってしまっているのです。


私の立場からすれば、創世記1:1の記述は正しいと信じています。
この前提から、創造主は私の主、私の神。イエスキリストです。
この堅固な岩から離れれば、いろいろ複雑なことを考え始めます。


定常宇宙論は、ビッグバン宇宙論が趨勢となった今では、廃れました。
では、ビッグバン宇宙論では、宇宙の始まりを認めているのでしょうか?
とすれば、科学者は全員、創造主を認めねばならないのですが・・・。

残念ながら、そうはなっていないようです。
天才物理学者スティーブンホーキンスはこういいました。
「宇宙が全くの自己完結的であり、境界や端を持たないのであれば、
宇宙には始まりも終わりもないことになる。だとすれば、創造主の出番はどこにあるのでしょうか?」

次は、彼の天才的な宇宙論、量子宇宙論についてみていきましょう。

P.S.
書いても書いても、議論足りないです。奥深すぎですね~。

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by creation_tsunya | 2010-02-13 18:37 | 創造論
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