宗教多元主義について考える パート1
2010年 06月 11日
話の中で出てきましたので、
宗教多元主義について考えたいとおもいます。
現代は多元主義の世界です。
まあ、そういう主張もあるか、というところで全ての主張を認め合います。
私はこう考えてます。あなたはこう考えているんですね。すばらしい。理解します。という感じ。
しかし、ここに信仰にとっても大きな落とし穴があります。
さて、宗教多元主義とは何か?
(ちなみに、私はそんなに詳しくないです。最近の多元主義はもっと発展してるかも。)
よく山登りにたとえられます。
山の頂上が人間の救いだと考えてみましょう。
ふつうの山登りだったら、いろんな登山コースがあります。
いろんな道があるのですが、それぞれ上ってみたら同じ頂上に着きます。
富士山に登るのに、砂走り口も、御殿場口もありますが、同じ10合目に到達することが出来るのと同じです。
つまり、宗教多元主義とは、どんな宗教を信じたとしても、
それは究極的な人間の救いに繋がるという主張なのです。
ユダヤ教でも、仏教でも、イスラム教でも、キリスト教でも同じ山を登っており、道が違うだけだと。
そのゴールは同じく、救いであるという風に考える主張です。
だから、考え方が違っても、宗教が違っても大丈夫。
対話して頑張ろう!という感じで、平和に用いられる主張です。
宗教で戦争なんてやってるのがおかしい、だから、みんな認めてしまって平和にやりましょうよ・・・と。
この一見よさそうに見える主張ですが、大きな落とし穴があります。
まず、救いの概念が宗教ごとに違いすぎるということ。
そもそも、ヒンズー教や仏教、神道、儒教には救いはありません。このへんを勘違いしてはいけません。
ヒンズー教は、階層が上に行くことがよいことであるだけで、救いという概念はありません。ゴールなしです。
仏教は、輪廻転生から抜けること、つまり「悟り」が最終目標であって、救いではありません。むしろ永遠の死に近いですね。
神道は、性善説ですので、そもそも救われる必要が無いです。現世利益だけでやっていけます。
儒教は、行動規範ですので、やっぱり救われるという概念はないのです。
救いの概念が無い宗教と、救いの概念がある宗教をどうやって、同じ山を登っていると考えることが出来るのでしょうか?
一神教だけ見ても、その調和は絶望的です。
一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つ。
人間の営みが長いとしても、一神教は3つしかありません。(これも驚くべき事実です。)
しかも、この3つは聖書のモーセ5書を同じく認めています。
創世記の3章に書かれている人間の堕落とその結果、罪によって命が失われたということを認めているのです。
さて、5書を認める3つの一神教ですが、信じているその神様は、同じではありません。
キリスト教は、ご存知のとおり、父・子・聖霊の三位一体の神様。
ユダヤ教は、ヤハウェ。ここに三位一体の概念はありません。
イスラム教は、アッラー。コーランに書かれる神様像は、どうもユダヤ教のそれとはマッチしません。
神様の概念が違うので、救いの概念も違います。
キリスト教はイエスキリストの十字架の死と復活を、信じれば救われます。
ユダヤ教は、いまだに救い主を待ち望んでいます。
イスラム教は、善行によって罪が赦されると言っています。
全然違うじゃん!と突っ込みを入れたくなりますね・・・。
平和に全てを調和することが出来るのでしょうか?
論理的に無理です。片方を取れば、必ず片方に引っかかってしまいます。
どう考えても、宗教ごとに違う山をせっせと登っているとしか考えられません。
ということは、どれかが正しくて、どれかが間違っているのです。
富士山を上らなきゃいけないのに、高尾山を上っている人がいるのです!
もしくは、箱根山とか、もしかしたら、近所の丘を登っている人がいるかも知れません。
なんと人間とは、こっけいな存在でしょうか?
だから、イエス様はこうおっしゃっているのです。
『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』ヨハネ14:6
『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。』マタイ10:36
真理は、人を分けます。それを認める人と、認めない人にです。
認め信じる人は救われますが、拒否する人は救われません。
この意味で、イエス様は剣をもたらしました。
私たちは、認めなければならないのです。真理であるイエスキリストを。
しかし、多元主義者、いや、世の中一般的な人は、クリスチャンのこのような主張にこういうでしょう。
キリスト教が唯一だという主張は、心が狭い。もっと肝要になるべきだ!と。
その主張は、救われたという優越感を持った人が、まだ救われていない人を見ていう、さげすむ表現だ、と。
このように主張する人は、忘れているのです。
三位一体の神様が与えてくださる救いがどのようなものかを。
それは、信仰です。信じるだけで救われます。行いによる条件がそこにはありません。
ですから、救われたいのなら、信じればよいのです。
ただそれだけなのに、信じようとしないのです。
そして、多元主義の人は必ずと言っていいほど、排他的な救いの概念を持っている宗教、
特にキリスト教を批判します。
しかし、ここにも大きな論理矛盾を抱えています。
次にそれを考えて見ましょう。
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宗教多元主義について考えたいとおもいます。
現代は多元主義の世界です。
まあ、そういう主張もあるか、というところで全ての主張を認め合います。
私はこう考えてます。あなたはこう考えているんですね。すばらしい。理解します。という感じ。
しかし、ここに信仰にとっても大きな落とし穴があります。
さて、宗教多元主義とは何か?
(ちなみに、私はそんなに詳しくないです。最近の多元主義はもっと発展してるかも。)
よく山登りにたとえられます。
山の頂上が人間の救いだと考えてみましょう。
ふつうの山登りだったら、いろんな登山コースがあります。
いろんな道があるのですが、それぞれ上ってみたら同じ頂上に着きます。
富士山に登るのに、砂走り口も、御殿場口もありますが、同じ10合目に到達することが出来るのと同じです。
つまり、宗教多元主義とは、どんな宗教を信じたとしても、
それは究極的な人間の救いに繋がるという主張なのです。
ユダヤ教でも、仏教でも、イスラム教でも、キリスト教でも同じ山を登っており、道が違うだけだと。
そのゴールは同じく、救いであるという風に考える主張です。
だから、考え方が違っても、宗教が違っても大丈夫。
対話して頑張ろう!という感じで、平和に用いられる主張です。
宗教で戦争なんてやってるのがおかしい、だから、みんな認めてしまって平和にやりましょうよ・・・と。
この一見よさそうに見える主張ですが、大きな落とし穴があります。
まず、救いの概念が宗教ごとに違いすぎるということ。
そもそも、ヒンズー教や仏教、神道、儒教には救いはありません。このへんを勘違いしてはいけません。
ヒンズー教は、階層が上に行くことがよいことであるだけで、救いという概念はありません。ゴールなしです。
仏教は、輪廻転生から抜けること、つまり「悟り」が最終目標であって、救いではありません。むしろ永遠の死に近いですね。
神道は、性善説ですので、そもそも救われる必要が無いです。現世利益だけでやっていけます。
儒教は、行動規範ですので、やっぱり救われるという概念はないのです。
救いの概念が無い宗教と、救いの概念がある宗教をどうやって、同じ山を登っていると考えることが出来るのでしょうか?
一神教だけ見ても、その調和は絶望的です。
一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つ。
人間の営みが長いとしても、一神教は3つしかありません。(これも驚くべき事実です。)
しかも、この3つは聖書のモーセ5書を同じく認めています。
創世記の3章に書かれている人間の堕落とその結果、罪によって命が失われたということを認めているのです。
さて、5書を認める3つの一神教ですが、信じているその神様は、同じではありません。
キリスト教は、ご存知のとおり、父・子・聖霊の三位一体の神様。
ユダヤ教は、ヤハウェ。ここに三位一体の概念はありません。
イスラム教は、アッラー。コーランに書かれる神様像は、どうもユダヤ教のそれとはマッチしません。
神様の概念が違うので、救いの概念も違います。
キリスト教はイエスキリストの十字架の死と復活を、信じれば救われます。
ユダヤ教は、いまだに救い主を待ち望んでいます。
イスラム教は、善行によって罪が赦されると言っています。
全然違うじゃん!と突っ込みを入れたくなりますね・・・。
平和に全てを調和することが出来るのでしょうか?
論理的に無理です。片方を取れば、必ず片方に引っかかってしまいます。
どう考えても、宗教ごとに違う山をせっせと登っているとしか考えられません。
ということは、どれかが正しくて、どれかが間違っているのです。
富士山を上らなきゃいけないのに、高尾山を上っている人がいるのです!
もしくは、箱根山とか、もしかしたら、近所の丘を登っている人がいるかも知れません。
なんと人間とは、こっけいな存在でしょうか?
だから、イエス様はこうおっしゃっているのです。
『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』ヨハネ14:6
『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。』マタイ10:36
真理は、人を分けます。それを認める人と、認めない人にです。
認め信じる人は救われますが、拒否する人は救われません。
この意味で、イエス様は剣をもたらしました。
私たちは、認めなければならないのです。真理であるイエスキリストを。
しかし、多元主義者、いや、世の中一般的な人は、クリスチャンのこのような主張にこういうでしょう。
キリスト教が唯一だという主張は、心が狭い。もっと肝要になるべきだ!と。
その主張は、救われたという優越感を持った人が、まだ救われていない人を見ていう、さげすむ表現だ、と。
このように主張する人は、忘れているのです。
三位一体の神様が与えてくださる救いがどのようなものかを。
それは、信仰です。信じるだけで救われます。行いによる条件がそこにはありません。
ですから、救われたいのなら、信じればよいのです。
ただそれだけなのに、信じようとしないのです。
そして、多元主義の人は必ずと言っていいほど、排他的な救いの概念を持っている宗教、
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次にそれを考えて見ましょう。
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# by creation_tsunya | 2010-06-11 22:53 | 創造論 | Trackback | Comments(0)

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