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ルカに入りました!  

今日の本文はルカ1:1ー25でした。

4節
「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分っていただきたいのであります。」

聖書の第一義的な目的はここにあります。
つまり、教えが確実なものであるということ。
聞いた福音が確信にたるものであるということです。
実際イエスキリストは私の為に死なれ私のために3日目に復活なさったという事実。
これが揺るぎないものであることと。
そして、それを信じるものに罪の許しと永遠の命を約束していることを確信させるという目的がありました。

ここで、お受けになった教え、とあります。
私達の信仰生活で一番大切なことはなんですうか?
そうです。受けた教えを守ること。
それは、忠実な従順です。

私達は、自分の信仰生活についてあれこれと悩んだり、その方法論を考えたりする必要はありません。
みことばに教えられていることをそのまま実行するのみです。
そこに私達の祝福があります。

その従順には、第一に心の柔らかさがなければなりません。
4つの土地で、良い土地とは柔らかい土地を表します。
実際に家庭菜園をするとわかりますが、柔らかく耕された土地から美味しい作物が取れます。
私達の心ばたけが柔らかくみことばの種を包み込むことが重要です。
聖書では頑なな心がという表現がありますが、そうなってはいけません。
私が聞きたいみことばも、聞きたくないみことばもすべて受け止める器となること信じて歩みましょう。


そして、第二に素直さが無ければなりません。
心がひねくれていたら、視点が曲がっていたら、みことばへの従順も曲がってしまいます。
自分の考え、こだわりをすてて、主の前にひざまずくんです。
私は死んだものです。私は主の前で何物でもありません。と告白する私となりましょう。

信仰は私の実力ではなく、私の心です。
心がどうなっているかによって信仰がどうなるかきまります。
自分のこころを潤しい、主の園のようにしましょう。
生ける泉から水が溢れ、すべての人が憩うことができるような。
この世という砂漠の中のオアシスのような心を持って歩む私と皆さんとになるように祈ります。

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# by creation_tsunya | 2012-01-18 15:41 | デボーション

予告編!!  

そろそろ勉強して貯まって?きた宗教多元主義について書いて行きたいと思います。

まさしく、宗教多元主義の時代に生きる私達がどのようにクリスチャンとしての、
とくに福音主義的な信仰を持ち続けることが出来るのか?
それが可能なのか?それとも修正を迫られるのか?
よく考える機会としたいと思います。

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# by creation_tsunya | 2012-01-17 20:35 | 宗教多元主義

心を尽くして感謝!  

今日のみことばは詩篇138篇でした。

詩篇138:1
『私は心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌を歌います』

心を尽くして感謝すること、これに尽きます。
テサロニケでは、何事にも感謝しなさい、これこそ神様に喜ばれることです、
とのみことばがあるとおり、みことばは常に感謝しなさいとの命令を下しています。
それは感謝が信仰が無ければ出来ないことだからです。

全てに感謝する。ということはまさしく、信仰が必要です。
感謝は「考える」から来る行為ですが、すべての視点を信仰による視点に切り替えなければなりません。
失意と絶望のどん底でも感謝することが出来るのは信仰の力のみです。

主がわたしを愛しておられ、私の見方であるという信仰。
万事が益としてくださるという信仰。
見えないところをすべてみておられる主なる神様への信仰。

このような信仰によってどんな状況でも主に感謝して賛美を捧げることが出来るようになるのです。

信仰とは本質的になんでしょうか?

ヘブライ11:1をみてみれば、
『信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』

ですから、信仰とは未だに起こっていない出来事を、起こったかのように信じて行う行為のことです。
私達はまだ新しくされてはいませんが、「新しくされた」とのみことばを信じれば、
新しくされたもののように生きることが可能になり、それが聖霊様の助けによって実際に新しくなっていく・・・。
未来の信仰が、現在の私に覆いかぶさり実際にそのようになるというプロセスが信仰です。
そして、信仰による祈りとは、その未来を手繰り寄せるものであるといえます。

まだ起こっていないことを主に期待する信仰。
これこそが感謝の秘訣で、唯一のモチベーションとなります。

ですから、今日もこの信仰を持って、
つまり、私を愛してくださり十字架に死んで復活されるまでしてくださったイエス様が、
その他全てのものを私に与えてくださらないわけが無い!という信仰を持って、
感謝に満ち溢れると信じます。

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# by creation_tsunya | 2012-01-17 20:32 | デボーション

あけおめデボメ  

明けましておめでとう御座います。新年も開けて半月が過ぎて今年もこの24倍で終わりです。
時をよく用いなさい。とみことばにあるとおり実践しましょう。

今日のデボーションは詩篇137編でした。

6‐7節
「エルサレムよ もしも、私があなたを忘れるなら私の右手はなえるがよい
私の舌は上あごにはりつくがよい もしも、あなたを思わぬ時があるなら
もしも、エルサレムを私の最大の喜びとしないなら。」

バビロン捕囚のその地でエルサレムを思う熱情がこの詩篇を作りました。
あまりにも故郷エルサレムを慕い求める心が痛々しいほどまでに伝わります。
私達クリスチャンはもちろんエルサレムを待ち望む必要はありません。
主が、霊と真を持って礼拝する時が来るとおっしゃったように、
今は霊と真をもって礼拝するその場所がエルサレムに変わるからです。
つまり、わたし達の仕える教会そのものが、霊的なエルサレムです。

さらに、待ち望むエルサレムは、待ち望む天国をもあらわしています。
天国での三位一体神様との愛に溢れた、というか、愛しかない生活を待ち望むのが、
私達クリスチャン、つまり罪人でありながら、
十字架の死と復活を信じることで神の子とされたクリスチャンの特権です。

だから、この詩篇の作者の告白と同じ告白を私もしなければなりません。

「もしも、イエス様を忘れるなら、右手はなえ、下は上あごに張り付くがよい」

この告白を持って、一日始まる私となるように祈ります。
イエス様を忘れたら、自己中心の生活へと落ちる以外ほかないのです。
食べるにしろ、寝るにしろ何をするにしろ主イエス様の為に、主の栄光のためにしなさい、
とコリント教会に使徒パウロは言いました。
まさしく、何をするにしても主の栄光のために、という心構えが、
主イエスキリストを忘れずに、いつでもどこでも主と共に歩む信仰生活です。

そして、私達に足りないのは熱情の歌ではないでしょうか?
こころ熱くして歌う賛美、ゴスペルがあまりにも少ない。
癒し祝福のゴスペルは相当数あります。
しかし、信仰をもやし救霊の思いを高め、主イエスキリストの十字架の死と復活を思い感激する歌。
このような歌をたくさん歌おうではないでしょうか!

主イエスのみがわたし達の救い。主イエスのみがわたし達の最上の喜び!!

この心を賛美に乗せて、熱情を載せて歌う私となるように祈ります。

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# by creation_tsunya | 2012-01-16 13:06 | デボーション

デボメ復活!  

お久しぶりにデボメを復活させます。やはりここが原点であり、出発点であり、ゴールでもありますからね。

さて、今日は民数記18:1ー7でした。

民数記18:1
「 主はアロンに言われた。 「あなたとあなたの子ら、ならびにあなたの 父祖の家の者らは、共に聖所に関する罪責を 負わねばならない。また、あなたとあなたの 子らは、共に祭司職に関する罪責を負わねば ならない。」

主の祭司職に関する呼び出しの場面です。
恵みの時代の今においては、私たちクリスチャンはみんなこの祭司として選ばれたものです。

なにより、祭司職は何をする人たちなのか?アロンが17章で民たちの罪をとりなしたように、罪のとりなしがその職務でした。
主なる神様と、罪深い人間を繋ぐパイプ役が祭司職に与えられた分です。

そして、この1節によれば、祭司職をどのようにアロンに任せているのか?どうでしょうか?それを罪責を負わなければならないとおっしゃっています。
つまり、責任を背負うことが求められているのです。なんの?民たちの罪とそのとりなしのです。

だから、クリスチャンは自分だけではなく、すべての人の罪を背負う必要があります。
もちろん、イエス様がそれを最初にそして完璧になさったわけですが、イエス様に倣うものとして、私たちも罪を背負わなければなりません。
日々、己を捨てて、自分の十字架を背負ってついてきなさい、と主はおっしゃいましたが、自分の十字架とは自分の罪によるものだけではありません。 そこには、他人の罪による十字架が含まれるのです。

十字架を背負うとは、なんのことでしょうか?十字架とは罪をあがなう象徴です。罪をあがなうのは、何によりますか?それこそ、愛です。
なぜ、愛はすべての罪をおおうと書いてある通りだからです。

祭司職として呼ばれている私たちは、つまり、愛の責任を主に問われていることになります。愛されている私たちには、愛する責任が生じるのです。
主が、なぜ第一主なる神様を愛し、他人を自分の体のように愛しなさいと命令されているのか?それは結局私が愛されているからです。その愛が、完全であるがゆえに、私たちは神様をそして人を愛することができるようになります。

愛の実践の一日にしましょう。他人を完全に受け入れましょう。自分と違うのが他人です。考えも、環境も違う。だから、他人の心をよく読む必要があります。祈って、愛する必要があるでしょう。
受け入れ、理解したときに、その人の労苦がみえるでしょう。足りなさや大変なところ、罪が見えるでしょう。それを一緒に背負うんです。付き合うんです。

イエス様が、私にしてくださっているように、「理解し一緒に付き合う」これを私もしなければなりません。できる人がこの世に誰がいるんですか?できません。誰も何も。
ただ、足りないところが違うだけです。それを背負いあうのを主は願っておられます。それを自分の責任と感じるクリスチャンを待っておられます。

アロンに、罪責を負わねばならない、とおっしゃった主は、私に同じことを命令されています。

あなた、周りの人を愛する責任を負いなさい!その人のめんどくさいもの全部背負いなさい!主である私があなたを背負っているのだから。

汗くさい、泥臭いこの愛を実践しはじめる私になりますように。


# by creation_tsunya | 2011-05-06 11:55 | デボーション

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